新自由主義経済というのは、社会全体を市場化してしまうことで、 個人の内面も市場で統治してしまう。 「あーあ競争ばっかだな」 「お金を稼げた人が偉いんだな」 と、漠然と心配している時点で、 すでに心理的には市場に支配されてしまっている。 一方で、じゃあ、そういうのは弱肉強食でしんどいから、 そういうものから脱していこうと、 脱世間、脱社会を言い出して山奥に引きこもったり、 独自の教育論や社会論を展開して、 「世の中は間違ってるから、もっと丁寧なくらしをしよう
わたしの人格が変わっちゃった感じです。 「人格が変わっちゃった」とか、簡単に言う言葉じゃないと思うんですが、 エックハルト・トールの『ニューアース』がその引き金を引いてしまいました。 というか、エックハルトの言っていることがそのまままるでわたし。 わたしは子どもの時から「世界がいながらにして二重になっている」という感覚の持ち主だったんですよ。 つまり、目の前の現実と同時並行して、全く違う、もう一つの世界が透け透けになって見えている。 その感覚が強まる時は、前兆があったり、
一瞥体験を3回ほどしました。 簡単に人生を振り返ってみましょう。 1984年生まれ。 小学5年生の時、自宅の洗面所で鏡に映る自分の顔を覗き込んだら、 その瞬間、自分の輪郭がガラガラと壊れるというか、うち砕かれるような体験をする。 その次の日から、「宇宙よりも広いものはあるのか」という疑問が湧き、 「それは自分かもしれない」と思うようになる。 こどもの発想なので、科学的、哲学的なことは何もわからなかったけれど、 「人間は、自分が認識している世界が、世界の全てだと思っている」
3年ほど前に不思議な体験をした。 いつもと同じように台所で夕飯の支度をして、そろそろ家族を呼ぼうとしていたところだった。 テーブルの上を拭くために台布巾を洗って絞り、それでテーブルを拭いた。 拭き終わって次は…と、次の動作に入ろうとテーブルのから顔を上げたときだった。 目の前に、いつもそこに置かれているプリンターが、 今日もそこにあったのだ。 …お分かりいただけるだろうか。 「あった」のである。 「なんだ、いつもそこに置いてあるプリンタなら、その日もそこにあるのは当たり
エックハルトトールの『ニューアース』。 不可分という言葉が出てくる。 当然。 生かされている自分と生きている自分。 いつだって、humanとしての自分と、beingとしての自分がいる。 不随意、随意。 内発、外発。 受動、能動。 いつもくるくると軸足が変わって生きている。 けれど意識が向くのはたいがいが半分の自分つまりhumanとしての自分である。 大いなる存在としての自分。 そちらがいつももう一つの自分を包摂している。
「私は正しい」と思うのは、思考である。 思考には真実は存在しない。思考は最初から正しくない。 つまり「私は正しい」は、正しくない。 ある思考へと自分自身をはめてしまうとエゴが固定される。 「私は正しい」から、動けなくなる。 クリシュナムルティは思考を否定した。 エックハルト・トールもそうだ。 思考は情報処理し、概念を文類する。 この能力こそが対立や暴力を産んでいる。 「私は暴力的なものは嫌い。平和に生きたい」 だれもがそう思うけれど、そのように「思考」している時点で、 対