![見出し画像](https://assets.st-note.com/production/uploads/images/67732651/rectangle_large_type_2_4f04ed9750534a3119e2b1c8bdc0445b.jpg?width=1200)
分離した個について
画家の知覚についてという昨日のブログで、Aという家の外に私がいるとき、私に直接に与えられているのは、Aという家の外観としての感覚的な一連の外観・輪郭です、と書きました。
Aという家まるごとを一度に全部とらえることはできなくて、私が動くたびに変化するアスペクトを感覚することしかできない。
でも私たちは「家だ」ととらえる。
言葉を使うことでそれは概念的な把握となり、辞書にのっている字義的な家となる。
家やビルのような大きいものだけでなく、目の前のりんごや、りんごが置いてあるテーブルも同じように言うことができそうです。
やっぱり、ものの全部を一気に捉えることはできません。
私に見えているその角度からのりんごの一側面を見て(感覚して)、「りんごだ」ととらえる。
この2つのこと、つまり、感覚を経験していることと、言葉で概念としてとらえること。この2つはぜんぜん違うことだと思いませんか。
私たちが直接に経験しているのは感覚のほうです。
ざっくり言うと、この経験の場にいるわたしは内側にいます。外にでることはできなくて、常に内側にいます。
外に出ることはできない。神の視点みたいなところには行けません。
外に出ているように思うのは、思考しているからです。
私たちは思考によって頭の中で巧みに操作することができます。概念操作をすることができます。
この操作によって、外側にものを、人を、世界を存在させて、分離した世界を作る。
それによって私は個となる(ように見える)。
でも経験によりそっていると、それは幻想だということがわかります。
分離は起きようがないです。分離は最初からないです。
そもそも、全体性としての内なので、外は存在しないです。
したがって、個の私はいない。