マリーゴールド

心理セラピストのマリーゴールドです。オンラインと大阪市北区で感情を解放するセラピーをしています。非二元や現象学、マインドフルネス、ヨガなどの視点からの心のあり方、絵画について話すのが好きです。 https://therapymarigold.com

マリーゴールド

心理セラピストのマリーゴールドです。オンラインと大阪市北区で感情を解放するセラピーをしています。非二元や現象学、マインドフルネス、ヨガなどの視点からの心のあり方、絵画について話すのが好きです。 https://therapymarigold.com

最近の記事

再生

コンテクスト(文脈)が変わることで自分が変わる

意識を変えればいい、といっても実際には難しいですよね。ただ私たちの中には変容のメカニズムがあって、そこをどう使うかということが重要だと思っていて、そのことについて話しています。

    • 感情エネルギーを開放すると体が軽くなる

      クライエントさんから、セラピーを受けた後に、その後の変化や感想をいただくことがあります。 最近その中に、体が軽くなったというようなコメントがありました。 その方の場合、仕事に関してはよくできるのだけど、日常の些細なルーティンといいますかそういうことをやるのに時間がかかっていたそうです。洗い物をためたり、お風呂に入るのをぐずぐずしたり。とにかく体が重かったのがスイスイやれるようになったとのこと。これはご本人にとっては奇跡のようなことだとおっしゃっていました。 これは本当に

      • 過去の自分に立ち会う意識の経験をする

        セッションでは、フェルトセンスと呼ばれる、クライエントさんが身体に意識を向けることで感じられる意味や感覚を表現してもらって、それをずーっとたどっていくことをします。それによって意識を下がっていきます。 以前、瞑想の先生が、瞑想をすることで「井戸の水位を上げる」という表現をされたことがありました。私はセッションで「井戸を下りていく」イメージをもっていて、この2つの表現は同じことを別の方向から指しているのだなと感じたことがあります。 二人で瞑想をする。 この状態は、身体に意

        • 内側の存在に気づく

          心(マインド)は、大いなる存在(本当のわたし)にとどまることができなくて、そこから出てさまよいます。 そこから自我が生まれ、「私はこれこれだ」だから「あれとかそれではない」という形をとって現れます。 私は〇〇。というふうに、何かにアイデンティファイしたい、くっつきたがります。 本質的には1つのものが見かけの上で分かれていって、あらゆる形や存在が生まれます。 自己紹介をするとき、私たちは最初に「私は」と言って、それから名前や職業を伝えます。でも調べてみると、この「私」の

          ラマナ・マハルシの言葉から

          心が大いなる存在のうちにとどまっているときには、すべての思考の元である私はいなくなり、本当のわたしが輝く。でも、現実はそうなってない、心は、頭脳や感覚器官をとおして、大いなる存在の外へ出たがる。 心が外へ出ると、世界が現れる。 心が外に出てゆくとき、悲惨を味わう。世界が現れると、悲惨の中を行く。 この身体に私として立ち現れているものが、心(マインド)である。 常にさまよいつづける心。 私という思いが、心の最初の思いであり、それがエゴ性である。エゴ性が生まれ出る同じ場

          ラマナ・マハルシの言葉から

          フェルトセンスを表現する

          最近、抽象画について、いくつか書いているうちに、抽象画が表現しているものはフェルトセンスなのかな、と思ったりしています。 フェルトセンスというは、感じられる意味というように訳されますが、漠然として言葉にならない、つまり、言葉として表現する前の身体に感じられる感覚や意味のことです。 身体に意識を向けることで、そこに聴いてみるかんじ。 フォーカシング指向心理療法というセラピーをつくった、ユージン・ジェンドリンがフェルトセンスについて多くのことを言及しています。 ジェンドリ

          フェルトセンスを表現する

          私を今・ここに置いてくれる絵画の力について

          マインドフルネスでいるための方法は、いろいろあると思っていて、カギは身体を使うことだと思います。 なぜなら身体はいつも今・ここですから。それを利用する。 その意味で、自分にとって合いそうなものを見つけるというのはいいと思います。 これをやると落ち着くのよねっていうやつです。集中や瞑想状態を作りやすくなるようなものですね。 もちろん、瞑想そのものがその最たるものではあると思います。   私が最近興味があるのが、絵画です。特に抽象画。 フランスの現象学者のミシェル・ア

          私を今・ここに置いてくれる絵画の力について

          アウェアネス・マッスルを鍛えよう

          前回、私たちの本質がワンネスであるということは、自分で自分の体のことを知るために感覚的に体験・観察することが大切だと書きました。 このことは、体だけではなく心も同じです。 心が苦しい時に、客観的な数値を出すようなかたちで診断してもらうことは1つの方法です。 これに対して自分で自分のことを知るというのは、内視鏡を自分に入れて、内視鏡の先端が自分というイメージです。その先端が感覚器官になっていて、そこで感じるイメージです。 実際の方法としては瞑想やマインドフルネスがありま

          アウェアネス・マッスルを鍛えよう

          自分の体のことを経験的に内側から知っておくことの大切さについて

          昨日、ノイラートの船というたとえ話を出して、私というのは航海中の船みたいなものだと書きました。  私というのが全体性としてのワン(one)だということは、外側は存在しないので、自分で自分のことを知りたい時に、外側から知ることはできなくて、言ってみれば内視鏡みたいな方法を使わないといけないことになります。 なにかトラブルが起きた時に、その航海中の船は自分で自分の症状を診断して、航海しながらも修理しながら、そして自分で回復していかないといけない。オートポイエーシスというのもこ

          自分の体のことを経験的に内側から知っておくことの大切さについて

          ワンネスについて

          前回、全体性としてのワンネスには、外はないと書きました。 これってどういうことなのでしょうか。 どうしても私たちは外を設定してしまうし、普段は外があるものとして、そういう見方をして生活するので、とてもわかりにくいです。 リアリティはワンなのですよね。だから私たちは深いところでそれを知っている。でも私たちの多くは忘れてしまっている。 哲学のウィーン学派の中心人物の一人であるオットー・ノイラートという人が言った「ノイラートの船」というのがありますが、これはワンネスの話でも

          ワンネスについて

          私という夢から目覚めたあと

          前回、個の私はいないと書きました。 全体性としてのワンネス。もともと外はないのですよね。 でも、心は自我の働きによって外をつくりだし、そこを指し示すために言葉を使うことになる。逆に言うと、言葉をもつことによって、私の外に世界があるようにみえる。 同時に、身体をもつ私たちは身体を通して感じたり感覚したりするので、個としての私、分離感はとてもリアルです。 自我を取り除こうとしても、これは逆効果でうまくいきません。 ある意味、自我との格闘をあきらめたときに、非個人的な自己

          私という夢から目覚めたあと

          分離した個について

          画家の知覚についてという昨日のブログで、Aという家の外に私がいるとき、私に直接に与えられているのは、Aという家の外観としての感覚的な一連の外観・輪郭です、と書きました。 Aという家まるごとを一度に全部とらえることはできなくて、私が動くたびに変化するアスペクトを感覚することしかできない。 でも私たちは「家だ」ととらえる。 言葉を使うことでそれは概念的な把握となり、辞書にのっている字義的な家となる。 家やビルのような大きいものだけでなく、目の前のりんごや、りんごが置いてあ

          分離した個について

          画家の知覚について

          現象学的に言うと、私たちはものを知覚する時に、ものの感覚を経験しています。 どういうことかと言うと、たとえば 私がAという家の周囲をぐるりとまわるときに、実際に私たちに与えられるのは、そのAという家の外観としての、感覚的な一連の外観・輪郭です。 家まるごとを一度に全部とらえることはできなくて、私が動くたびに変化するアスペクトを感覚しています。 でも、私たちはそんなふうには考えなくて、概念的に捉えます。これは家だよねというふうに。 つまり、感覚としての経験は「これは家だ

          画家の知覚について

          自分がやりたいことがわからないとき

          これってあとから次第にわかってくるような気がします。なんとなくでも行動していくうちに。点と点がつながって・・・、というようなことをいいますよね。 結局、常識とか、まわりから変だと思われないように行動しなきゃという思いが強すぎると、本来の自分の望みが隠れてみえなくなる。 自分が投影したものを見てしまって、そこに反応して行動してしまうので、その下にある生命の動きを感じることができにくくなる。 非二元で個の私はいないとは言っても、現象としては現れていて、これは植物や動物たちが

          自分がやりたいことがわからないとき

          私がやっているセッションについて

          こんにちは。セラピストの Marigold です。 私はキャシー天野さんからアクセスコードリーディング(ACR)というセラピーを学びました。ACRは、クライエントとセラピスト2人でする瞑想のようなものだなあと私は思っていて、私たちの意識の構造を使って、普段気づきにくい意識の深いところへ触れていく試みです。ACRはセラピストである私がクライエントさんの話を聴いて仮説を立てて(あるいは原因を推測して)進めるものではなく、問いかけによってクライエントさんから発せられるフェルトセン

          私がやっているセッションについて

          だって元からあるもんね、それに気づいただけのこと

          バラの咲く公園に行って、顔を近づけていろんなバラの香りを吸った。それぞれ違う香りがして。 当たり前かもしれませんが、芳香剤やバラの香水の香りとはぜんぜん違うなあ。 ほのかなんですね。でも感じる。それぞれのバラの香りが違うことがわかる。 この香り好きだなあ、というのはあるのですが、それぞれ個性があって、そこに愛おしさを感じます。 それに気づいているわたし。これが直接経験なんですね。 存在に気づくこと。 リアリティ。 今ここで感じている。 生の新鮮さがはっきりと感

          だって元からあるもんね、それに気づいただけのこと