音とわたし
もしかしたら、私にとって「音」は、言葉や表情よりも自分を表現してきたものかもしれない。それだけ自分に近く、その時感じていることが何もかも包み隠れず正直に「音」という形になる感覚がある。だからこそ、集中するのだ。濁りがないように。不純物が混ざらないように。
とても分かりやすい例を挙げてみようと思う。
昨日、このアストル・ピアソラの「アヴェ・マリア」をヴィオラとピアノで録音した。
大事な友人へのパーソナルギフトとして制作を決めたので、そこには純粋な気持ちしかない。ただ、録音をしていると、当然、ミス (今回はピアノも自分で弾いたので特に。笑) や音程、色々な雑音などが気になってくる。そして、よくも悪くも、録音中の独特なモードに入っていく。それがいい集中となることもあるし、反面、初心をふと忘れている瞬間もある。そんな時は、ふっと深呼吸をする。大事な人を思い浮かべて、あったかい気持ちが胸に広がっていくのを感じ直す。そうするとまるで違う音が出るから、人間というのは凄いものだと我ながら感心する。
実は昔、音に八つ当たりしたことがある。何が原因だったかはもう覚えていないが、無意識にやってしまったその瞬間、誰よりも自分がショックだった。単に汚い音が出たというのではなく、音を出す感覚はどこか自分にとって神聖なものだったのに、それを物凄い勢いで穢してしまったような悲しい気分だった。その時の胸の痛みは今でも思い出せる。それ以来、音を出す時の自分の気持ちを注視するようになった。
自分がどんな状態であろうと、音楽にはなんの罪もない。スッとモードを変えて、真正面から音と向き合う。そんな「今ここ」の感覚は、日常の些細なことでも発揮されるくらい、今では自分の中で自然な感覚となっている。
演奏家として生きていると、常に高みを目指す世界に身を置いている厳しさと同時に、こういった感覚に巡りあうことで、大きな意味で何度も助けられている。音楽が淀みなく流れると、滞っていた血液が全身に巡るように色々な感覚が軽やかになる。音楽が傍にいてくれて、よかった。