【第五回】延原の苦難
さて、前回は「シャーロック・ホームズ」シリーズの翻訳者として知られる延原謙が、雑誌『新青年』の編集長に就任したところまでをご紹介しました。
が、このあとが苦難つづきなんです。
苦難その1:雑誌をたらいまわし
編集長としての実績を買われたのか、ただ人手不足だったのか、延原は次々といろんな探偵雑誌の編集長を任されます。
昭和3年(1928年)10月号~ 『新青年』
昭和4年(1929年)10月号~ 『朝日』
昭和6年(1931年)創刊号~ 『探偵小説』
この3誌とも、同じ博文社の雑誌で、探偵小説が目玉の雑誌なんです。。。社内で競合しすぎでしょう笑
出版不況のいまではありえない状況ですが、この頃は『新青年』や講談社の『キング』(探偵小説など幅広く掲載していた大衆誌)が売れていたので、各社探偵小説を掲載した雑誌をたくさん出していたようです。
でもさすがに競合が多すぎたのか、『朝日』も『探偵小説』も早々に廃刊してしまいます(『新青年』は戦後まで生き残りました)。詳細な時期は不明ですが、延原は博文社を退職しました。廃刊になってしまった引責辞任との見方もあるようです。
ただ、退職後も『新青年』への投稿は続けていました。『ドイル全集』も出版されていますし、編集長時代にはなかなかできなかった翻訳業に戻れたようです。また研究者に戻るという選択肢もあった中で翻訳を続けたということは、研究や編集より翻訳業が好きだったのかな、であれば翻訳業に戻れてよかったのかな、と思います。
苦難その2:第二次世界大戦
そして第二次世界大戦に突入します。
戦時中は翻訳ができなくなると見越した延原は、昭和13年(1938年)には中国揚州にわたり、宣撫班と呼ばれる植民地支配を進める集団に協力して過ごすように。終戦後の昭和21年(1946年)になんとか東京に戻ります。
国際社会のインフラを担う翻訳者が植民地支配に積極的に関わっていたのか、と思うと個人的にはもやもやしてしまうところもありますが、ここから「シャーロック・ホームズ」シリーズ完訳まで突っ走る延原の執念は尊敬に値すると思います。
戦後の貧しい時代に翻訳ものを出版する、それだけでも大変難しいことは想像に難くありません。「シャーロック・ホームズ」シリーズにはさらに、翻訳権の問題もありました。
原作者ドイルは1927年に最後の短編集The Casebook of Sherlock Holmesを出版しました。
最後の短編集を除く「シャーロック・ホームズ」シリーズのほとんどは旧著作権法の特例である10年留保(翻訳権の保護期間は10年のみであり、原作出版から10年以内に翻訳されていなければその国内で自由に翻訳を出版できる)が適用され、多くの邦訳が出版されていました。ただ、この最後の短編集のみ戦前に改造社が翻訳権を取得して翻訳を出版していたため、10年留保が適用にならず、翻訳権を購入する必要があったのです。
そうして最終的に翻訳権を購入したのが月曜書房という出版社でした。この月曜書房より1951~1952年にかけてはじめて、「シャーロック・ホームズ」シリーズ全作品の初の日本語完訳が出版されました。延原が東京に戻ってから5年が経っていました。
苦難その3:出版社のたらいまわし
この月曜書房という出版社。偉業を成し遂げたわりに、聞いたことないですよね。
そりゃ当然です、この「シャーロック・ホームズ」シリーズ全集を出した直後に倒産しているので。泣
延原は以下のように嘆いています。
わりとすぐ潰れてしまったので、潰れる前に本当に1万部出せたのなら十分売れたと言えるでしょうし、月曜書房は頑張ったんじゃないかと思うんですけどね。
この月曜書房から新潮社が翻訳出版権を買い上げ、翌年には新潮文庫版の全集を販売開始しています。そうして今に至るまで、途中で改訂を挟みつつも、新潮文庫は延原訳を採用しています。
半世紀以上、いくら改訂を挟んでいるとはいえ、同じ翻訳者の訳文が安定して出版され続けるということはなかなかありません。半世紀もすると日本語の書き言葉は大きく変化します。日本語で書かれた名作であれば、古臭くても頑張って読むかもしれませんが、翻訳であれば新しい訳文を出した方がいいのではという発想になるわけです。
そうならなかったということは、延原の訳文が特別よかったのか?
次回、この謎に迫りたいと思います。