根をおろして生きる
やってしまったことを、うじうじと考えても栓無いこと。前を向いて歩くしかない。
そうは思うのだが、どうしても自分のやってしまったことを思考する、内省する癖があるわたしは、立ち止まる時間が長い。
とことん過去の記憶をほじくり出し、自分にとって都合の悪い記憶も、極力、得手勝手に改竄せずに向き合う。
あまり向き合い過ぎてメンタル不調になる。でも、自分のしたことを思考せずに、自分の過去の記憶を隠蔽して安穏と暮らすよりも、苦しむ方が楽だ。
しんどいけれど、あったのに無かったことにして、見てみぬふりをするよりも、どっぷり内省の沼にハマる方が好きだ。
沼にハマると、足が沼に取られて溺れそうになるが、溺れる前に沼に根をおろそうとするのがわたしだろう。
深く思考する、深く内省することで、人間は深く、しっかりと根をおろして、自分という幹を安定させる。
根があることは動けなくなるけれど、それが安定感に繋がり、長い目で見ると信頼感にも繋がる。
根無し草と呼ばれる人がいるが、自由な人を演じながら、単に何処にも根をおろす勇気がないだけかもしれない。
男はつらいよの寅さんだって、ちゃんと根をおろす家族という場所があったし、ほどよい足かせは節度のある人を作る。
だから、わたしもあんなに嫌っていた家族の元に帰ってきたし、家族に守られながら内省三昧の日々を過ごした。
何をそんなに内省するかって?
挙げていたらキリがないが、大きなモノから小さなモノまで、何にでもすぐに躓いては、「何やこれは?」と躓きの要因と向き合う。
会釈してくれた相手に返した、自分の会釈の角度すら気になる。
そんな些細なことに躓いていたら、前に進めないと言われそうだが、次の躓きが来ると、すぐに次に意識が飛んでいって過去となる。
過去になるまでは躓きっぱなしだが、あまりにも躓きの要因が小さいために、心配しなくても、引きずる暇がない。
ただ、大きめの躓きがあったら、いつも父が話を聴いてくれていた。その父もいない。
みんな死んでしまって、残ったのはわたしと猫のマールだけ。でも、毎日、気づけば父に母に話しかける自分がいる。
父と母、そしてわたしと内なるわたし。その4人がガヤガヤと対話している。話すこと、思考することは山ほどある。
現世の時間で足りるだろうか。