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「手本」となる人がいる幸せ
年を取ってくると、これまでの経験則だけでどうにかなることが増えてくる。「手本」となる人を探して、その人から学ぼうとか、 技を盗んでやろうという、前向きな気持ちが目減りした人が増えてくる気がする。
いわゆる自己流だけど、それなりには出来ているので、それなりに満足してしまう。
よほど、自分に対して厳しく、自分にも周囲にも範を示す生き方をしていないと、緩んだ生き方になってしまうだろう。
体を緩めるのはいいけれど、生き方まで緩めちゃうと、人生がつまらなくなりそうだ。
そんなとき、わたしは「手本」となる人を 探す。職場のみならず、趣味のような愉しい領域でも同様だ。
若い頃は、とりあえず近場の上司や先輩で、「手本」「模範」となりそうな人を探した。
しかし、多くがすでに馴れて、惰性の域に 達しており、次のステップに足を掛けようとする人は少なく、違う意味での「手本」が わんさかといた。
仕方がない。多くの人は仕事と家庭の両立で疲弊していた。特に看護師の世界に入ると、先輩を「手本」として学んで、次ぎは自分が後輩の「手本」になる時期が出産、子育てと重なったり、あまりの過酷さに心が折れて、辞めていく時期と重なったり。
わたしが新米の看護師として働き始めた病院でも、「手本」となる人材がうまく育成されておらず、空洞ができていた。
まさかの、看護師歴が10年以上のおっかないではなく、バリバリの看護師や主任クラスの看護師が、「手本」のプリセプターとなっていた。
彼女たちにも新米の時期はあっただろうし、新米の苦しみもあっただろう。
しかし、10年以上も経つと記憶は薄れるし、たとえ記憶が残っていても、苦しかった記憶には浄化しきれてないマイナス感情がくっついている。そのマイナス感情を新米いじりで解消しようとする先輩もいた。
こうして、「ブラック手本」とも呼べそうな先輩看護師たちにいじられて、夏を越すことなく辞めていく新米が後を絶たなかった。
なので、わたしが最初に勤めた病院、なんと5年近くも新米が育たず、古米ばかりの古い気質の職場だった。
そこに、少しばかり薹がたった、小姑みたく口うるさいわたしという新米看護師がやってくるという噂で、古米たちは殺気だった。
(わたしは看護学校でずっと首席だったが、 そんな個人情報も駄々漏れ状態。彼女たちの苛立つ気持ちも分からなくもないけどね)
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だからかな、わたしの「手本」はその病院のバリバリ、マドンナみたいな主任だった。
就職するやいなや、その可愛さと有能さで 多くの医師たちを魅了し、取り合いバトルが繰り広げられたという噂話を後に聞いた。
そんなマドンナをゲットしたのは、外科医の若きホープだった。
とにかく、そんな「手本」を宛がわれた新米看護師の苦悩を、古米どもは知らない。
それでも、もし、わたしみたいに薹のたった新米看護師に、新米を卒業したばかりの先輩看護師が「手本」としてやってきていたら、わたしにケッチョケチョにやり込められたに違いない。
それはそれで、逆パワハラになる?
本来、「手本」とは単に技術を教えるだけではなく、そこに宿る"精神性"みたいなものを教えるもんと思っているわたしは、下手な「手本」を宛がわれるくらいなら、専門書を買ってきて、最先端の知識や技術を習得しただろう。
だから自分の「手本」が主任だったのは幸運だったが、彼女は妊娠中だった。出産して、復帰するまでの期間、わたしには「手本」が無かった。
ただ、プリセプターという「手本」は無かったが、他の古米先輩たちが「手本」となってくれた。
一冊の「手本」ではなく、手垢にまみれた「手本」がたくさん用意された。でも、薹のたったわたしにはその方が良かった。看護師という人種の多様な価値観(拘りとか執着)を知ることができたし、その病院の現在地を 知ることもできた。
この経験は自分がプリセプターになってから役に立った。
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今、わたしには靴作りの、師匠と呼ばれる「手本」がいる。
この年になって、「手本」を手にする機会を得たのは幸運だろう。
それも職場ではなく趣味の領域だ。そして、どんな「手本」からでも工夫して、最大限の学びを引き出せる、自分という味方がわたしにはいる。
確か、ハンナ・アレントが「手本」のことを「導きの糸」と呼んでいた。
糸は導いてはくれるだろうが、頼りすぎてはダメ。力を入れすぎると、糸は容易く切れてしまうだろう。
「導きの糸」を見つけ、 謙虚さと挑戦という相反する想いで糸を手繰り寄せる。遊び心でいっぱいのわたしの心は、見事な糸さばきをお披露目してくれる筈。
これからの人生も、愉しそうだし、退屈する暇もなさそう。わたしの人生、まんざらでもない。