知的好奇心で禍を乗り越える
人間には知識の限界をこえて思考し、思考を単なる知識と行為のための道具として利用するだけでなく、自分の知的な能力、脳の力をもっと使いたい傾向性がある。
これは、ハンナ・アレントの「責任と判断」という著書に書かれた一節だが、人間という生きものの特性をよく表していると思う。
知への欲望、知的好奇心があるから、わたしたち人間は生きていられる。なんて言うと、「そんなもの無い」と言う人もいるだろう。
確かに、知への欲望、知的好奇心が無くても生きていられる。そして、知への欲望や知的好奇心を持てるのは、生存の保証がなされているということだ。
今にも獅子に食べられそうな崖っぷちで、「どうして私は食べられる運命にあるのか」なんて思考して、自分の知的好奇心を満たす前に、獅子の腹を満たし兼ねない。
では、どうして人間には知への欲望や知的な好奇心を満たしたい願望があるのだろう。
決して暇だから、という訳ではないだろう。
ハンナ・アレントは、人間の知への欲望は、意図した目標を実現することで満たされる、と言っている。
目標を持つ、目的を持つ。それは、夢を見ることができる人間だから持てるものであり、しっかり将来を見据えて、より良い生き方を模索していくことが糧となって、更に知への欲望、知的好奇心が満たされていくなんて、可能性は無限大だ。
今のコ○ナ禍だってそうだ。今こそ、知識の限界を越えて思考していく。独り善がりの 思考ではなく、全体の幸福という共通認識で思考していく。
この禍を突破するために全体の知を結集し、共通の意図した目標の実現に向けて行動を 起こせば、乗り越えられると信じている。
分からない、関係ない、無理、どうせ他人事なんて考えるのではなく、分かろうと努力をする。無理なんて言わずに、自分から関係の輪に入って自分事にしてしまおう。
自分の知的な能力、脳の力をフル活用して、今の禍のなかを乗り切りたい。
「同じアホなら踊りゃな損!損!」だし、「たっすいがはあかん!」だ。