寺子屋とカタパルト|学校/02 #4|安達眞弓
《自分で選び取った学校に進んで、プロの翻訳家になった。挫けそうなときにそばにいてくれた存在とは》
小学校をみっつ、中学校をふたつ。父親の転勤で日本各地を渡り歩いた。高校と大学は父親の望んだ名門校には行けず、「馬鹿」と呼ばれて人間扱いされなかった。だからだろうか、親がかりで通ったところではなく、自分で働いて学費を払った翻訳学校に愛着がある。わたしが選んだ、わたしの母校だ。
その学校は「寺子屋」と呼ばれていた。
寺子屋は少人数制だ。ひとクラスに受講生が10人もいれば大所帯で、必然的に講師と受講生の距離が縮まり、受講生の個性が講師に伝わる。寺子屋は添削をしない。受講生は講師の背中を見て、仲間の受講生の訳文を見て育つ。寺子屋は仕事をくれる。経営母体が書籍の翻訳権を仲介する版権エージェントであるため、書籍そのものを訳さずとも、翻訳に付随する業務が発生する。わたしも校長先生から時折声をかけてもらって、ウェブサイトの翻訳などをやった。これが結構お金になって、2年も経つと、払った学費と学校から依頼される仕事の収入がトントンになり、やがて収入が余裕で学費を上回るようになった。
そのかわり、寺子屋のレベルについていくのは至難の業だった。授業のたびに絶望した。配布された訳文を見ると、わたしだけが盛大に誤訳している。原書を読んであらすじをまとめ、所感を書く「リーディング」の授業では「安達さん……あらすじが長すぎる、それに、まとまっていません」と言われる始末。絶望がイヤイヤ期を呼び、あやうく登校拒否になりかけた。家を出る時間がちょうど夕方の帰宅ラッシュと重なるため、自宅から駅までのバスに積み残し客が出るほど混んでいたのも、登校拒否に拍車をかけた。
そこに救世主あらわる。いや、普通に同居していた。夫が駅まで送ってやると言い出したのだ。夫はそもそも車が大好きで、学生時代にはトラックの運転手のバイトをしていたから、運転がめっちゃうまい。当時実務翻訳者だった夫にとって、夕方に5分ほど運転するのは、いい気分転換になったそうだ。こうして毎週火曜日の夕方、わたしは夫の車で駅まで送り出された。
なぜだろう、駅に着いてしまうと勢いがつく。すんなり電車に乗れてしまう。これはあれだ、巨大な戦艦から航空機を射出する装置、カタパルトだ。夫の赤い車が、概念・物理の両方で重かったわたしの尻を押し、神保町へと送り出した。高く、遠くへ。
継続は力なりとはよく言ったもので、続けることで、英語を読む力、文脈をひもとく力がついてきたのだろう。登校拒否を乗り越えたころから誤訳が減ってきた。あらすじが「まとまっていません」と言われなくなった。そんなある日、校長先生がふらりと教室に入って来て、「あだっちゃん、ロック好きだったよね」と言うや、一冊の原書をくれた。先方が翻訳を急いでいるそうだから、試訳を作って、と。
時間は夢のごとく過ぎていく。最初の単独訳書を出して、もう15年になる。優しいけれど怖かったリーディング担任のO先生からは、一時期毎月のようにリーディングのお仕事をいただき、担任のH先生と、Hクラスの仲間たちとは今も交流がある。つい先日も終電ギリギリまで飲んだ。
思えば先生方もカタパルトだったのだな。ぐずぐずしていたわたしを翻訳という世界に射出する装置。空に出てからは操縦士である自分だけが頼り。飛び続けるのも、落ちるのも、わたし次第だ。
低空飛行かもしれないが、15年間、何とか飛び続けてきた。きっと、これからも。老いに撃墜されるまで、ずっと。
文:安達眞弓
>>次回「学校/02 #5」公開は10月21日(月)。執筆者は栗下直也さん
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?