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コインを投げる:「運がわるい」は「運がよい」に裏返せる|運/03 #3|関野哲也

《病気、仕事、人間関係……すべてがままならなかった哲学者・関野哲也。絶望での決意表明が本の出版に繋がった》

関野哲也(Tetsuya SEKINO)
1977年、静岡県生まれ。リヨン第三大学哲学科博士課程修了。博士(哲学)。フランス語の翻訳者/通訳者として働くが、双極性障害を発症。その後、福祉施設職員、工場勤務などを経験。「生きることがそのまま哲学すること」という考えのもと、読み、訳し、研究し、書いている。著書に『よくよく考え抜いたら、世界はきらめいていた』他。
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「運がよかった」と思えたことがある。想像すらしていなかった出来事だ。それは、Twitterを始めた1年後に、書籍の編集者さんに見つけてもらい、本を出版できたこと。

今から3年前、わたしは福祉施設の新規オープンにたずさわっていた。上司に頼まれ、施設用のTwitterのアカウントを作った。それをきっかけに、自分でも個人のアカウントで哲学的なことを呟いてみようと思いついたのだ。だが、1年ほど呟いたところでくたびれ、飽きてしまった。そろそろ最後にしようと呟いたものが、思いもよらず、プチバズった。

プチバズったのは、その福祉施設を辞め、新たに工場勤務を始めるときだった。自分の長所を活かせる仕事ではなかったが、生活のために「やるしかない」と腹をくくった。それはちょうど年の始めで、決意表明のつもりだった。そのときの呟きは三つからなる、次のものだ。

長らくフランス語や哲学を学んだものの、いやはや、業績不足や年齢、その他の様々な自身の欠点のために、もはやアカデミズムの研究職には就けず、今年は生活のために工場勤務をするという状況になりそうです。そのような状況を自身でどう肯定できるのか。本年の課題はもっぱら、そのことに尽きそうです。

「自分を捨てて、十字架を担う」という福音書の言葉。魂が神以外のものから離脱することによって、魂の内に神がお働きになる場所を作ること。自分を捨てて、神の御心のままに従うこと。それを「十字架を担う」と言うのだろう。十字架の聖ヨハネの「暗夜」。

苦しい状況、逆境におかれてもなお、「人生はこの状況下で私に何を求めているのか」を問い続けること(フランクル)。「私がしたいこと」という私中心の発想を捨て去ること。人生が私に投げかけてくるどんな些細な「意味」であろうと、それを自身の「使命」とすること。その「使命」に態度で答えること。

この呟きが拡散されたことにより、たまたま編集者さんの目に留まった。彼女は、わたしのそれまでの呟きを遡って読んでくれ、「いい文章を書くひとだ」と思い、声をかけてくれたのだ。

もしあのときTwitterを始めようと思わなかったら……。もし早々にTwitterをやめていたら……。もしあのタイミングで呟いていなかったら……。もしプチバズっていなかったら……。もし編集者さんがTwitterをチェックしていなかったら……。

こう想像すると、何がどんなきっかけになるのか、まったく予想できない。もはやわたし一人の力では、どうすることもできない領域だ。こうした複雑な要素が絡み合いながら、ひとつの結果を生み出す。その結果を「運」と呼べるのかもしれない。

さらには、人間万事塞翁馬と言われるように、「運」にはコインの裏表のような性格もある。つまり、「運がよかった」と「運がわるかった」は、受け取り次第でどちらにも転じるのだ。

わたしは双極性障害を発症し、それまで長く続けた翻訳の仕事を泣く泣く辞めた。2015年に療養のため、実家のある静岡へ帰ってきたものの、それまで学んだ哲学やフランス語を活かせる仕事はなかった。そして、そこから8年あまりのあいだ、仕事を転々とすることになる。渡り歩いたのは、工場(3ヶ所)、福祉(3ヶ所)、事務職(2ヶ所)、ドライバー(1ヶ所)。辞めなくてはならなかった理由は、双極性障害の再発、腰のヘルニアの再発、そして人間関係でつまずいたことによる。

「仕事運」なるものは、もはや尽きたかと思った。やることなすこと、どうにも上手くいかなかった。藁にもすがる思いで、普段は信じない占い師に未来を鑑てもらおうと頼るほど、精神的に追い込まれていた。占い師からは、「水子が見える。心当たりはないですか?」と。この時点でいんちきだと思った。納得いかないが、仕方なく高い鑑定料を払って帰ってきた。踏んだり蹴ったりとは、こういうことだろう。

仕事を辞めるたびに、悔しくて、情けなくて、悲しかった。オレは何をしているんだろう。そう思って、うなだれて、泣けてきた。だが、上述の編集者さんと作った自著『よくよく考え抜いたら、世界はきらめいていた 哲学、挫折博士を救う』(CCCメディアハウス)を書くうえで、この8年間の苦しい経験が役に立ったことは間違いない。本書は、いかにこの状況を肯定的に捉えるかという、わたしの奮闘記でもあるからだ。つまり、経験が役に立ったことで、「運」というコインが反転したのだ。

役に立ったと言えば、わたしにはこんな経験もある。初めて双極性障害を発症したとき、当初は「なぜ自分が」と受け入れられなかった。どこにもぶつけようのない怒りさえ感じた。頭を締めつけられるような感覚と倦怠感で、布団に横たわることしかできなかった。病気になるなんて、まさに「運がわるい」と思った。

だが、発症から数年経ったころ、体調もよくなったので福祉の仕事に就いた。知的、身体、精神障がいのひとたちと接するとき、何となくだが彼・彼女らの抱える不自由さ、先の見えない不安を理解できるように思えた。わたし自身が病を抱えるという経験をとおして、彼・彼女らに自身を重ね合わせることができたのだと思う。

同じ病のひとの気持ちが少しでもわかるという経験により、自分の病に意味が与えられた気がした。わたしが初めて病を受け入れることができたのは、そのときだ。「運がわるい」が「運がいい」に反転したとはまだ言えないけれども、病から〈救われた〉ような瞬間だった。

苦しい経験の真っただ中にいるときには、その意味は見えない。しかし振り返ったときに、「ああ、この経験にはこういう意味があったのかもしれない」と思えることがある。だから、たとえどんな「運」がめぐってきても、自分の意思によって、後からでもいい、そこに意味を見出そうとすることはできるのではないだろうか。そこで、わたしはこう言いたくなる。「人生に、無駄なことはないのかもしれない」と。そして「そう信じたい」と。

文:関野哲也


>> 次回「残暑/03 #4」公開は11月16日(土)。執筆者は安達眞弓さん


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