【日記】ドキュメンタリー『教育と愛国』(22.10.27)
話題の『教育と愛国』(斉加尚代監督)をようやく、地元ホールの上映会で見る。「歴史から学ぶことなど何もない」とうそぶく東大名誉教授、自由な教師たちの活動を窒息させる「維新」の松井・吉村、研究費助成をネタに大学教授の発言を脅す国会議員、検定を傘に着て「自主修正」を強要してはばからない文科省の官僚、「従軍」慰安婦など存在しなかったと断言してやまない駐在大使、「国を蔑ろにするこんな教育で子どもたちを育てていいのですか!」と叫ぶアヘ、あまりに糞ばかりがウィンナーソーセージの如くつらなり登場するので、殺人リストをつくるべきだと画面を凝視しながら呪詛のようにつぶやいていた。そしてアヘが犬のように殺されたのは至極当然の報いだったと改めて得心した。かれらこそがまさしく「反日」であるのだが、わたしはもはや「国」などどうでもよい。「国家」なんぞといったものがあるがために、その糞に群がりたかる蛆虫や蠅どもが如何に絶え間ないことか。「国境」などどうでもよい。「民族」など、ない方がいっそよい。それらはみな、蛆虫や蠅どもを肥やす糞でしかない。マルコムXの「X」は「青い目の悪魔が父方の先祖に強引に押しつけた、奴隷の主人リトルに代わるもの」だとマルコム・リトルは喝破した。であれば、日本人○○でなく、X国○○でよい。世界中がX国になればよい。辺野古も尖閣も北方領土も従軍慰安婦も強制連行も在日も残留孤児もウクライナもロシアも消滅する。国旗は「X旗」で、国家などは「X唄」でよい。レノンはかつて「神は苦痛を測る尺度にしか過ぎない」と歌った。であれば「国家」とは所詮は集団を生きやすくするための「方便」でしかないのだ。もともと命を捧げるような大したものでもない。内なる「国家」を死滅させよ。方便が日常を侵食し出したらおしまいだ。方便が至上の存在で、方便を死守するものが英霊なのだなぞと言い出したら、そいつは相当イカレている証しだ。気をつけろ。
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