失敗の多さの正体は?
「わたし、発達障害かもしれない」
そういった不安を掲げる人が沢山いるという。学校や職場でのミスの多さや不器用さに自分でも呆れ返ってしまっているのだろう。
嫌味な言い方をすれば、自分の足りなさをそうした病名でカバーできると思っているのだろうし、この不可解な現象に理由を求めているのかもしれない。
僕も今その渦中にいる。
昔から不注意な所があったのだが、職業を変えてから、その傾向が悪目立ちしつつある。
何かやらかす度に自分の中にいる、たくさんの自分が自分に語りかける。
「もう次はないよ」
「もう、何か病気なんじゃないの?病院いくなりしろよ」
「相談しないと、心死んじゃうよ」
しかし、その反対側には別の意見を持った自分がいる。
「仮にそうやって診断されたとして、周りが急に理解を示してくれると思ってんの?だったら自分なりの改善策とかを実践すべきでしょ」
「診断書を得てどうするの?辞めるの?それから先は?」
不安で仕方なくて、セルフチェックをやってみる。
診断は「かもしれません」「低めです」が7:3程度。
病院で診断しようにも微妙な判定。しかも、診断にかかる金額は僕にはちと重い。本格的なものになると親等、生育環境を知る人の同伴が必要になる。
正直な話、うちの親はそういうものに疎い。
親に対して、憎しみとか嫌いとかそういう感情は無いが、それゆえ迷惑をかけたくないし、親も親でそういう診断が出たら自分を責めそうなくらいには生真面目な性格だ。余計なことには巻き込みたくない。
「数字に対しての強いこだわり等はありますか?」
「一連のものの記憶に秀でていますか」
セルフチェックの途中、こんなような質問があった。
歴史上の偉人の生まれた年とか死んだ年、年号系の記憶は強かった。それだけでなく、時刻表を読むのが好きだ。こればかりは元々の鉄道好きが高じた故なのかもしれないが、人より時刻表を見ている時間は長いと思う。
そのくせ、仕事上のルールとかが一向に覚えられない。
こんな書き方をすれば、発達障害って認められたいと思われるかもしれないが、小学生時代は発達障害に見られるような、授業中走り回る子供ではなかった。むしろじっとしていた方だった。
このように中途半端に症状が当てはまるのが一番つらい。努力こそ全て、それで凌いでくれと言われている気になる。
もう少し気軽に診断とか相談受けられないのかなと思うと、また自分が自分に言う。
「だから、相談して診断受けて、そこからどうするんだ」と。