ジョイス ダブリナーズ『姉妹』

ネタばれかもしれないので注意。

 このノートは、「Deep Dubliners — ジェイムズ・ジョイス『ダブリナーズ』オンライン読書会」の予習メモです。
https://www.stephens-workshop.com/deep-dubliners/

読んだのは下記。

  1. 『DUBLINERS』NORTON CRITICAL EDITIONS Edited by Margot Norris 2006

  2. 『The Collected Works of James Joyce』THE CASTANEA GROUP (kindle版)

  3. 『ダブリン市民』安藤一郎訳 新潮文庫(昭和58年11月20日 43版)

  4. 『ダブリンの人びと』米本義孝訳 ちくま文庫(2008年2月10日 一刷)

  5. 『ダブリナーズ』柳瀬尚紀訳 新潮文庫(平成22年3月1日 一刷)

以下、原文の引用は1から(D S.行数)、翻訳は5から(D-Y S.ページ数)。

予習の指針として主催の小林さんから下記が提示されているので、とりあえずこれに沿って。

①フリン神父とはどのような人物か?
②フリン神父と「僕」の関係は?
③「僕」を語り手とすることでどんな効果があるか?
④なぜこの作品のタイトルは「姉妹(たち)」なのか? それは短篇集全体の主題の「麻痺」とどのように関わるか?
⑤この短篇で気になった表現(面白い、カッコいいと思った部分、あるいはよくわからなかった、つまらなかった、不快だった部分は?)

①フリン神父とはどのような人物か?

■フリン神父は third stroke (D S.1) で伏せっている。
 翻訳がすべて「卒中」としているのは、「僕」がそう思っているからなのか、ほんとうに卒中なのか。最終部で「there was something gone wrong with him....」(D S.307)と明かされることから、事実は「精神病(神経症)の発作」という理解でよいのか? あるいは、イライザが「I’d find him with his breviary fallen to the floor, lying back in the chair and his mouth open.」(D S.254-6)と言うように、卒中も併発していたのか。

■コッター老人の評価
 「なんかしら変人」「なんかしら気味悪い感じ」「まあ一種の…奇人の部類」(D-Y S.11-12)

■イライザの評価
 「ちっとも手の掛る人じゃなかった。家の中で物音一つ立てない」(D-Y S.22)
 「いつも几帳面すぎる人」「司祭のお務めは荷が重かった」「一生、八方ふさがりの十字路に立っていたようなもの」(D-Y S.23)
 (ちなみに最後の原文は「And then his life was, you might say, crossed.」(D S.273-4) 。上手い方の柳瀬さんらしい訳)
 「あの聖杯を壊したものだから……。(中略)これは気がおかしくなったと思ったんです……。)(D-Y S.23-25)

「僕」の記憶を除くと、フリン神父は以下のような人物像と想定される。

◆物静かで敬虔な元司祭。
◆神経質で几帳面で気に病むタイプ。
◆聖杯をこわしたことが直接のきっかけで精神病(神経症)の発作を起こす。
◆おそらくその事件から司祭を引退し自宅に引きこもり姉妹の介護を受けていた。

②フリン神父と「僕」の関係は?

 「僕」が13歳程度だとすると、数年前からラテン語や教義などについて手解きを受けていた。(「僕」は、コッター老人に子供扱いされて怒るあたり、自意識が芽生え始めた初期くらいと想定できる。シェリー酒は宗教的な理由で口にしているだけ)
 フリン神父は「僕」に目をかけている。「僕」は多分出来のいい教え子。
 享年65なので、おそらく初対面の時点ですでに「精神病(神経症)」を患っていたが、「僕」はそれを「卒中」による「麻痺」と聞かされていた。(コッター老人やおばさんの口ぶりからすると、大人は皆、薄々勘づいてはいるが公には口にしないというレベル)
 フリン神父とは近々も頻繁に会っている。(嗅ぎタバコやいつもの椅子の件) しかし「麻痺」がひどくなっているので、教義問答やラテン語の発音などの手解きを受けたのはかなり前のことで、最近は会っても嗅ぎタバコを詰めてあげる程度だったのではないか。
 ベッドでの妄想でフリン神父を気味悪いものとして捉えているのは、すでにあまり会いたくはないと思っているのか。あるいはクリスマスに元気な神父と会いたいと願っているのか。また、忌中カードを見たあと「自分が内心ほっとして、あの人の死によって何かから解き放たれたかのような気分なのに気づいて、腹立たしくさえなった」(D-Y S.16)りしているので、「僕」はちょうどフリン神父(信仰)から離れる境界に位置するイメージ。

③「僕」を語り手とすることでどんな効果があるか?

 あざといくらい、「僕」から見た世界が変容する様を描く効果がある。

 「卒中による麻痺(paralysis)」だと思っていた神父が精神を病んでいたと「僕」が「気づく(notice)」(単語 notice は The Sisters に圧倒的に多く、7回出てくる)ことによって、「I knew that the old priest was lying still in his coffin as we had seen him, solemn and truculent in death, an idle chalice on his breast.」(D S.301-3)と一気に「知る」(あるいはすでにうすうす知っていたことを知る)ことになる。

 知った(うすうす知っていた)こととは。

◆フリン神父の「smile」は、慈愛の笑みでも「麻痺による笑みのような表情」でもなく、精神的な病の笑いだったこと。
 ・「solemn and truculent」が繰り返されるのは、本来、卒中による麻痺で死んだのなら、表情筋が緩んだまま固定するはずなのに、厳しい顔のままになっている違和感を示唆しているのではないか。
 ・「When he smiled he used to uncover his big discoloured teeth and let his tongue lie upon his lower lip—a habit which had made me feel uneasy in the beginning of our acquaintance before I knew him well.」(D S.146-9)とあるように初対面時から予めその「異常性」に気づいていた。

◆ 神父は何かを悔いて告白(confess)しようとしていたこと(ベッドの中の妄想)。それがchalice(聖杯)を壊したことをきっかけにしており、「僕」と同様にフリン神父にとっても聖杯に象徴される信仰は、「空の/徒な」役に立たない(idle)ものとなっていたこと。

④なぜこの作品のタイトルは「姉妹(たち)」なのか? それは短篇集全体の主題の「麻痺」とどのように関わるか?

 まず、姉 Eliza 妹 Nannie の対比。
 イライザは全く動かない(椅子に座ったまま)が、過去を思い出し、慨嘆し、話す。
 ナニーはよく動くが、全く話さず、最後はソファで居眠りをする。
 ナニーは精神的な「麻痺」を象徴しており、イライザは肉体的な「麻痺」を表象している。

 次に、The Sisters をカトリックの「シスター」としても読めることを考えると、彼女たちは、兄ジェイムズ・フリンに清貧・貞潔・従順を誓った修道女として描かれているとも言える。つまり、姉妹は社会習慣を信仰して「麻痺」してしまっている。

 もちろん、「僕」を幼児的思考の「麻痺」から覚めさせる役割を負っているのがこの姉妹であるが、名前は、Eliza(エリザベス)とNannie(アン)であり、フリン神父の名前が James なので、当然、アイルランドでカトリックを徹底的に粛清した女王エリザベス1世とアン女王、およびもともとカトリックのジェームズ1世を思わせるので、ジョイスが意識して命名したに違いなく、姉妹は「僕」に信仰の無惨さと愛国心の両方を突きつける役割を担わせているのか。(政治的な背景で描かれるダブリナーズの短編を予告している?)
 ちなみにこういう名前であれば、当然、長女 Eliza、長男 James、次女 Nannie という順番であろう。

⑤この短篇で気になった表現(面白い、カッコいいと思った部分、あるいはよくわからなかった、つまらなかった、不快だった部分は?)

◆モチーフとしての布、dark、部屋、脳
 「僕」は暗い部屋のベッドで毛布をひっかぶり脳の中で神父の顔とベルベットのカーテンに埋まった異国の夢を見る。
 フリン神父は「Drapery」の小さな部屋で重いコートに包まって眠っている。
 「Drapery」は鎧戸で閉まっている。棺の部屋はブラインドで閉まっている。

◆「the Freeman’s General」「rheumatic wheels」
 言い間違えか聞き間違えか? 
 イライザが言い間違えたなら、老婆の聞き齧りの言葉という以上の意味はないが、新聞のフリーマンズ・ジャーナルを言い間違えるだろうか。
 語り手の「僕」が聞き間違えたことが反映されているとすれば、まだ世の中を知らない子供であることを示していることと、この短編があくまで「僕」視点で描かれていること(ある種の「信頼できない語り手」)を強調しているのではないか。それでは足りないと思ったのか、(my aunt という指標以外には)背景に沈んでいた「僕」をシェリー酒の件で前面に出すのも、そういった語りのレベルを読者にわかりやすく提示しているのかもしれない。
(もしそうだとすれば、「中気車輪」というのは「空気車輪」を「僕」が神父の中気に引きづられて聞き間違えたという、米本さん(柳瀬さん?)がジョイス以上にジョイスの意図を汲んだ名訳かも)

◆フリン神父の「語らない人」という表象
 フリン神父は、冒頭から最後まで全く喋らない。語り手「僕」の記憶の中でも一度もセリフがない。僕の妄想の中では「告白」しようとしては失敗し、最後には「告解室」にこもってすら、告白せずに笑うだけの人。

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