見れない映画26:作品批評の外④;孫以下の世代が蓮實重彦を読むための覚書き
以下は、孫以下の世代(1990年生れの私)に向けた、蓮實重彦を今からでも愉しくよむためのメモである。
1−1 蓮實重彦はフランス文学者である。
1−2 蓮實重彦の映画批評は趣味である。
2−1 蓮實重彦の批評は物語批判である。
2−2 蓮實重彦の批評はロラン・バルトを前提としている。よって蓮實重彦の批評は神話批判である。
3−1 蓮實重彦の映画批評は作品評の集合である。
3−2 それゆえに作品評の集合としてその向こうに浮かび上がるのは理論の幻である。
3−3 蓮實重彦は客観的な記述をしない。代わりに、蓮實重彦は表層批評を行う。
3−4 蓮實重彦は主観的に何が見えたかを書き、見えなかったものについて書かない。唯一の例外が優劣の趣味判断である。よって蓮實重彦の映画批評は主観的な観察に基づく趣味判断である。
4−1 1−2、2−2、3−4より、蓮實重彦の統一的な映画理論なるものは存在しない。
5−1 蓮實重彦は映画史を参照して作品に言及する。
5−2 蓮實重彦は自身が直接体験した鑑賞経験を映画史の一端として語る。
5−3 蓮實重彦が特権化するのは50年代のアメリカ映画である。つまり、蓮實重彦は戦前ハリウッド黄金期のネイティブの鑑賞者ではない。
5−4 ハリウッド黄金期の映画鑑賞体験をネイティブとして語りうる世代はほぼ亡くなっている。
5−5 以上より、蓮實重彦が統一的または特権的な映画史を語ることはない。
6−1 蓮實重彦は自己の主観性を特権化するレトリックに長けている。
6−2 蓮實重彦のようにその体験の主観性を面白おかしく語ることはできない。蓮實重彦ではないから。
7−1 蓮實重彦以後に映画批評が取りうる戦略は以下の三つになる。
・映画を通じて映画以外のこと(自己、社会、音楽や哲学など他分野)を語る。
・表層批評であるが、映画を語らない。
・蓮實重彦の影響下で映画を実作する。
(私は、作品を通じて自己や社会を語る言葉を基本的に信用しない。人間や人間が営む社会を目的にするとその言葉は、人間の営みに依存し、流行りに流される。作品には(極めて短いという場合も含めて)人間の寿命とは異なる時間が流れている。作品について語ることは流行らないが、流行りの外で思考する手段になる。作品について語る言葉だけを信用する私は、作品批評の外に何があるか思考するためにこの日記を続ける)