文学界9月号 「特集:エッセイが読みたい」についてのメモ
エッセイが流行っているかどうかもよくわかっていないが、メモ書きとして。
寂しいかもしれないが個人的な結論は、
「私が関心があるのはメタフィクションで、エッセイにはそれほどでもない」というものになる。
ただ、エッセイとフィクション、とりわけエッセイと私小説・メタフィクションの棲み分けをはっきりさせることができたという点では、学びのあるものをいくつか読むことができた。
そもそもエッセイとはなにかということについて特集の中では、野村訓市「エッセイとは何かをめぐる小さな旅」が一番素直な入口になると思った。すでに流通するそれらをめぐりつつ、エッセイとは「本業がある者が、知られざる素の顔を見せながら、体験なり見聞きしたものに対して自分の考えを述べるもの」と定義される。
これを土台に、柿内正午「エッセイのような論考(「エッセイという演技」)」、宮崎智之「エッセイについての論考(「定義を拒み、内部に開けーエッセイという「文」の「芸」)」を読んでみると特集全体の見晴らしが良くなるように思う。
これをもとに私個人にとってのエッセイの定義を更に端的にまとめると、
「誰が書いたのかを大前提にやりとりされる書き物」ということになる。
(私小説を含む、メタ・)フィクションと積極的に対比をするなら、「書かれた内容が書いたとされる作家についての事実として窃視的な欲望を喚起しながら流通する書き物」と言えるかもしれない(フィクションでは作家の名前がクロースアップされないとか、エッセイには事実しか書かれていないとか、今更そういう素朴なことは言わないが)。
エッセイが書き手を彩る「お化粧」のようなものだとすれば、フィクションは作家の作った「人形」のようなものであるという印象を持った。この見立ての上でまとめると、
エッセイというのが有名人の専売特許ではなく、お化粧にはお化粧のプロの技術と作法があるように(柿内氏の言うところの)素人には素人の日記の作法があるというのが柿内、
とはいえ、人形のように自立するものではなく顔がなければ化粧もないし、ニュートラルな顔というのもない、そのエッセイにある「お化粧的不安定さ」がこのジャンルを脆いものにしつつ、それゆえある程度手付かずの部分を残した形式(定義を拒むこと)にしてきたというのが宮崎、
という印象で読んだ。
(柿内の言葉だと化粧というより「演技」のほうがふさわしい言葉のように見えるが、ここではエッセイとフィクションの対比を前提にしている関係上、劇を連想させる「演技」の語を避けて話をすすめたい)
特集全部を通じて一番印象に残ったのは、
堀江敏幸「素通りさせないための四肢」と松尾スズキ「傷つくことだけ上手になって」だ。
柿内、宮崎の柱と「エッセイについてのエッセイ」「文学フリマでエッセイを買う」の四点で構成される特集で、多くは「おすすめエッセイの紹介文」か「私小説風の散文」になるところ、この二つだけ少し軸がずれるように思う。エッセイが「誰かが書いたことを全てにした散文」だとするなら、この二つは散文の前を素通りして書いた「誰か」の生身の身体に向かう。
堀江について、
これがエッセイの紹介文だとすれば、おすすめされているのは正宗の文ではなく外見であり、身体であるし、
松尾については、これが私小説風散文だとすれば、「わたしのエッセイは自分が主役の短編コメディだった」と本人が言うようにエッセイを書き続けることで「傷つくことだけ上手になった」松尾の身体が題材になっている。(これは柿内氏のエッセイ・日記の技術の先にある話だと思う。そういう文章を書かされることによって変容する個人の話)
身も蓋もないが、最終的にはそれがエッセイかフィクションかどうかよりも「散文を書いた身体」、もっと言えば「やむを得ず散文を書かされた身体」についてさいごは興味を持った。