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「3.11」 と わたし Vol. 27 生まれ育った大好きなこの地で

主婦 三瓶 たつ子 さん

震災から10年の節目、
飯舘村に様々な立場から関わる人々が語る
自分自身の10年前この先の10年

今日の主人公は、「たっちゃん」こと 三瓶 たつ子 (さんぺい たつこ) さん。

不安定な避難生活中も、婦人会やサークルの仲間と連絡を取り続け、村に戻るその日まで希望をつなぎました。

自宅は移住者が多く住むようになったエリアにあり、彼らの頼れる相談役になることも。
広々としたお庭にお邪魔すると、愛犬「こてつ」が元気に飛び跳ねながら迎えてくれます。

元の通りとはいかないけれど、いま近くにいる人たちとの関わりを大切に。
生まれ育った大好きな場所で、焦らず、少しずつ。


非日常に翻弄される日々

2011年3月11日、あの日は夫が早朝に初めて喘息の発作をおこし福島市内の病院へ。
診察が終わり昼ごはんがまだだったので瀬上町の4号線沿いの食事処に入り、オーダーしたものがテーブルに運ばれ食べようとした時、ゴーーグラグラと今までに経験したことのない揺れ。とっさにテーブルの下に身を隠し、食器棚から落ちる食器類のガシャンガシャンと割れる音を耳にしながら飛び散る破片から目をつぶり身を守っていました。

揺れは続いていましたが、夫は福祉会で「やまゆり保育所」と「いいたてホーム」の施設長を兼務でしたので、塀が崩れ、水道が噴き出す中を急いで村に戻り、真っ先に保育所の安全を確認し、その後はいいたてホームに行ったきり戻らずでしたので、私は一人で家の中の片づけをしました。

電話は繋がらず子供達家族の様子もわからず、夜になると停電で辺りは暗闇、一人で心細かったのでホームに行きました。その時ラジオから原町市の特老施設が津波被害にあったニュースを耳にしながら身が震える思いでした。

村は対策本部を設置、津波被害にあった人を受け入れる避難所を開設、女性役場職員で避難者に炊き出しを開始、当時私は婦人会の副会長をしており、翌日婦人会にも要請があり携帯電話も不通の中、会長と二人で23支部の支部長宅を夜遅くまで連絡に走り回りました。
その時寄ったある家で一夜が明けたら南相馬市は地獄絵図だよと聞き、何の情報もない私はその意味の予想もつきませんでした。

13日から婦人消防隊、婦人会、日赤団と各団体が役場職員のもと五升炊きの大鍋で何回も炊いて多い時で約二千個おにぎりを握りました。
既に第一原発も津波被害により電源喪失したため大変な状況であることも知る由もなく、受け入れ施設の屋外で活動をしていました。(後の記録で15日は避難所会場付近で放射能線量が急上昇とあり)

13日、電気が一部回復し、15日は携帯電話が使えるようになり,第一原発事故状況が見えてくると避難者が次々と中通り方面へ移動し、段々少なくなっていきました。
川俣に移動した人達が避難所がいっぱいで村に戻ったという声も。
物流が途絶え、ガソリンや水の配給が始まり、屋内退避指示が出ると村の施設「やすらぎ」が村南方の蕨平、長泥、比曽地区住民の避難所になりました。

センター地区に、自衛隊の車両が物々しくグランドいっぱいに待機している様子を見て不気味に思えました。

その年は同級会の事務局もしており四月の桜の下で節目の還暦同級会を予定、久しぶりの再会を楽しみに待つばかりでしたが中止せざるを得ませんでした。
県外の同級生からは早く避難して~と何人もの人から電話を頂きましたが、屋内は大丈夫と思いコタツに入りテレビの情報にくぎ付けの日々でした。

4月22日、国が計画的避難区域に指定、当時の枝野官房長官が足を運び住民説明をしました。
原発事故、ヨウ素、放射能、線量、被爆、避難、スクリーニング検査、モニタリングと無知な私は初めて耳にする言葉に翻弄され、無我夢中で移転先を探し一か月が慌ただしく時が流れ6月中旬に福島の借上げ住宅に避難しました。

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地に足つけた生活を

6年間の避難生活は地に足の着かない浮草のような生活に思えました。
そんな中でも村に戻り元の村に戻る希望があったからこそ会員約700人の大所帯の組織である婦人会を始め、女性消防隊、趣味の太極拳サークル仲間とできるだけ連絡を取り合って、情報交換することで繋いできました。
でも6年間という避難生活の間には其々の家族、行政区の繋がりに変化が生じ始め、元通りの村は難しいと感じながらも、地に足つけた生活をしたくて2017年3月末に解除と同時に帰村しました。

現在、我が家の隣に村営住宅が10棟(20戸)あり、避難前は村内の若者家族が殆どでしたが、今は移住者が多く元村住民は僅かです。
でも移住者の中にも若い家族が多く0歳~中学生まで15人の子供達がおり、土日の学校休みの日は外で遊ぶ子供達の声に和まされています。

私達、昭和団塊世代の子供時代の生活は現金収入もなく家計は苦しく、農作業の働き手でもありましたが、物は足りなくとも野山を駆け巡り暗くなるまで外で遊んだ思い出、戦争の経験も無く高度成長期にのり少しずつ家計にもゆとりができ、子供達も家族をつくり自立、平和な時期を過ごしてきたものだと思います。
この10年の過ぎし日はアッと言うまでもあり、10年を節目に3月に入りメディア関係が報じる、当時幼かった子供達の今の成長の報道を見ると時の流れの重さを感じます。
震災当時、復興という言葉があり、「花は咲く」の歌が頻繁に流れ、大好きな歌ではありますが「私は何を残しただろう」のフレーズが自分に問いかけたりする時もあります・・・。

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人の一生は重き荷を負うて遠き道を行くが如し

これからがスタート地点と思い、元の形に拘らず、地域住民との交流は勿論、移住された人達と一緒に交流を深め、「遠くの親戚より近くの他人」という言葉もありますが、一番はご近所と気兼ねなく話せて、笑いを絶やさない付き合いを大事に過ごすことが、健康で生きる秘訣と思っています。

そして地域おこし協力隊の若い人達の知恵と一緒に理解協力し合い、足並みを揃えて焦らず少しずつ住み易い居心地の良い地域づくりを目標に、好きな庭の手入れと愛犬との散歩を楽しみながら過ごして行きたいと思っています。生まれ育った大好きなこの地で!!

「人の一生は重き荷を負うて遠き道を行くが如し」
久々に耳にしましたので。これを詠んだ戦国時代と今では人生感の違いはありますがね(笑)

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