「3.11」とわたし Vol.7 茨城の高校生が、飯舘村の役場職員になったワケ
飯舘村役場 万福 大輔 さん
震災から10年の節目、
飯舘村に様々な立場から関わる人々が語る
自分自身の10年前と今とこの先の10年。
今日の主人公は、飯舘村役場職員の 万福 大輔 (まんぷく だいすけ) さん。
なんと、まだ21歳。
公務員の家系に生まれ、漠然と自身も公務員になりたいと思っていたそう。
そして、就職先として選んだのが飯舘村役場。
高校卒業後、単身での移住を決意しました。
その背景にあったのは、地元茨城と飯舘を往復しながら
村の復興に携わり続ける父の姿__。
落ち着きのあるしっかり者と思いきや、
ときどきお茶目なところも。
そんな万福さんを、ぜひ知ってください。
死ぬかもしれない。
10年前の2011年3月11日、私は茨城県に住んでいました。
当時、小学校5年生でした。
今まで経験したことのない揺れに、
生まれて初めて「あ、死ぬかもしれない。」
と思ったのを鮮明に覚えています。
私の住んでいた地域は、停電・断水はしたものの
一週間も経たずに復旧しました。
特に電気は、12日の夜には復旧しており、
テレビで地震の惨状を目の当たりにし、
幼いながら戦慄を覚えたのを記憶しています。
移住を決意、父の背中を見て
私は、平成30年度より飯舘村役場の職員として働いています。
住民票も村に移しました。
なぜ、茨城県出身の私が、遠く離れた飯舘村の職員になったのか。
いくつか理由がありますが、一番の大きな理由は父が関係しています。
私の父はいわゆる”研究員”と呼ばれる職に就いており、
特に環境・農学分野に長けています。
父は、福島第一原子力発電所の事故が発生した直後から、
農地などの除染技術の開発や、
汚染土壌から放射性セシウムを除去する技術の開発を担当しました。
そして、平成24年4月から
飯舘村の復興対策課(現在の産業振興課)に派遣され、
農地の除染技術の開発、環境回復の研究、営農再開、
さらには住民説明に至るまで、
多岐にわたる事業に携わりました。
そんな父の背中を見て育った私も、
いつか人の役に立つ仕事がしたいと思うようになり、
飯舘村役場に就職することを決意しました。
と言えば響きはいいですが、
実際は公務員であれば茨城でも良かったというのが本音です。
しかし、父が飯舘村と長年ご縁があり、
村の様子もちょくちょく話に聞いていて、
せっかくなので飯舘村役場の試験も受けてみようと思いました。
「ああ、あの人ね!」と言ってもらえるように
役場職員になってから、まだ商工観光の仕事しか経験していませんが、
イベント等で県外に足を運んだ際に、
来場者の方が飯舘村に興味を持ってくださったときや
たまたま飯舘村出身の方に出会って、
「応援してるよ」と言っていただいたときには
非常にやりがいを感じました。
10年後の自分がどうなっているか見当もつきませんが、
移住をしてきた身なのでまずはみなさんに
私のことを覚えて頂くことが目標です。
「役場の万福さん」といえば「ああ、あの人ね!」と
言っていただけるようになりたいです。
まだまだ未熟な私ではありますが、
村の明るい未来のために、できることを精一杯やって
一生懸命働いていく所存ですので、
今後ともよろしくお願いいたします。
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