「3.11」と わたし Vol.25 実践と検証、村の人の「科学者なアプローチ」
物理研究者 今井 誠さん
震災から10年の節目、
飯舘村に様々な立場から関わる人々が語る
自分自身の10年前と今とこの先の10年。
今日の主人公は、物理研究者 今井 誠(いまい まこと)さん。
今井さんは広島市出身。
研究者として2011年からスクリーニング支援や除染ボランティアを行い、
現在は京都大学工学研究科で教鞭を取りながら、ふくしま再生の会を通じて飯舘村に通い、放射線の測定実験を行っています。
研究者として、技術者として、専門家として、一個人として。
10年の出会いの中であった、実践と検証、思考の記録。
→2011.3.11 私と物理と友人
大学在学中から加速器という装置を使ってイオンと原子を衝突させる実験をし、今は京都大学と京都府立大学で学生実験、数学、物理を教えている。
仕事の内容を聞かれると、「100年前ならノーベル賞という実験」と答えている。
数学と物理の違いを聞かれると、「細かいことまで全部気にして考えるのが数学で、細かいことは気にせずに、なるべく少ない法則でなるべく多くの現象を説明しようと考えるのが物理、だから私は物理の方が向いている」と答えている。
放射線は正確には専門分野ではないが、専門の実験でイオンや原子を検出する技術は放射線の検出と共通することから、多少の知識はある。
大学院を卒業し、茨城県の研究所に就職した。
東京より北にはそれまで行ったことがなく、茨城に住むことになったのだから東北を巡りたいと思っていた。まずは会津、中通りをはじめ、山形、岩手、青森までスキーに出かけ、友人もできた。
特に親しくなった大熊町の農家とは、研究所から大学に移った後も機会を見つけて一緒に出かけた。
結婚式にも出席し、子供達にスキーを教えた。
子供達は私を大学でスキーを教えていると思っていたそうだ。
2011年3月は、8日から10日まで茨城の研究所で実験の後、11日午前東京で会議に出席し、午後には品川で研究会に出席していた。
あと1時間足らずで自分の発表というとき、治まりかけてはまた揺れることを繰り返す長い揺れに襲われた。実験中の9日11:45、三陸沖を震源とする地震があったことからそっち方面と直感した。
小さい子供がいる女性は中座し、まだ動いていた東海道新幹線で帰ったが、研究会は自分の発表を含め、予定通り続いた。研究会を終えた時点で新幹線は止まっており、品川区役所で夜を明かすことになった。
その夜、ネットで19:03の原子力緊急事態宣言発令と12日5:44の第一原発10 km圏内への避難指示を知ったが、あくまで念のためとしか思わず、品川区役所から大熊の友人へ冗談半分のメールを送ったりしていた。
友人の返答にもまだ余裕が感じられた。
技術者への信頼
理系の実験研究者は技術者でもあり、私も例外ではない。
技術者とは少なくとも自分の責任領域について誰よりも熟知し、あらゆる責任を負うものである。そのように教育され実践を求められるし、そもそもそう捉える素養を持ったものが技術者となる。
そういう意味で東電を含む日本の技術者を信頼していた。
もともと、化学エネルギーも物理エネルギーも自然界におけるエネルギー形態の1つと捉え、それらの利用について分けては考えず、原子力アレルギーはなかったが、原子力発電はある意味未完成のシステムと考えていた。
いわゆる原子力神話は、一般の人向けの説明であり、過酷事故は起こさないという事業者の決意の表れだと思っており、個々の事業所での技術者の組織と働きを信頼していた。
それまでの数多の不祥事は管理の問題と捉え、1999年のJCO臨界事故でも技術者への信頼は揺るがなかった。
12日朝6:20の新幹線で東京を離れ、12日午後から13日はTVを見ていた。
1号機が爆発した瞬間は本当に驚き、声を上げた。
東芝で軽水炉を担当する先輩より、核爆発ではないと説明を受けたが、そのとき水素発生機構については知らなかった。
大熊の友人には電話は通じず、メールも届いているかわからなかったが、12日夜、田村市総合体育館にいると返答があった。
あくまで一時的な避難で、じき帰れると思っているようだったので、こうなったらしばらく帰れないだろうから、友人でも親戚でも頼って体育館を出るようメールした。
「放射線のことはよくわからない」との返答があり、「何でも聞いてくれ」と返すしかなかった。
14日15日、3号機4号機が水素爆発したときには怒りしか感じなかった。
その後、事業者や現場自身が原子力神話の罠に陥っていたなどの話が出るに至り、信頼は瓦解した。
2011→2012 放射線値と除染
17日から放射線値と関連する情報をウェブページにまとめ、大熊の友人へ送り続けた。
文部科学省より福島でのスクリーニング支援要請があったので、都合がつく限り7月に1回、8月に2回参加し、大熊の友人の避難先にも寄った。
7月に行った時には、ガンマ線用とX線用の2つの個人線量計を着けて行った。2日間合計の線量は、ガンマ線用線量計が22マイクロシーベルト、X線用線量計が13マイクロシーベルトだった。
この違いは機種の違い、個体の誤差を考えると妥当なものなので、疑問は感じず、後々多くの人から空間線量計と個人線量計の値の違いや、機種による測定値の違いにつき聞かれることになるとは思っていなかった。
大学へのスクリーニング支援要請が解かれた後、福島に行くのをやめるわけにはいかないと感じ、コープ福島を通して11月に3回、2012年5月に1回、伊達市下小国、月舘と福島市大波でボランティア除染に参加した。
このとき、計画的避難区域となった飯舘村や警戒区域となった浜通りの市町村は国が直轄で、福島市や伊達市は市が除染を担当することになっていた。しかし、国による除染は始まっておらず、ボランティア除染の視察に訪れた国の人に、市街化された沿岸部は除染効果が高いので、線量が高くても早めに除染を始めて下さいと話した。
福島市、伊達市で業者除染が始まり、ボランティア除染が一段落した2012年7月、ふくしま再生の会の事を知って飯舘に行った。
同じような団体がいくつもあったが、ネットに載っていた会員名簿に知っている名前があったのが決め手だった。
実験と検証、科学者と農家
研究の進め方はいろいろだが、実験などで得られた結果が即正しいというわけではなく、それらを学会や論文で発表し、研究者同士の検証を経て正解に至る。
検証のための方法論や実践に関する訓練を受け、正しく実行できる、そして実際そうする者が科学者である。
自説を構築するときには、仮説を立て、それを検証する実験を考えて実行し、結果を考察して仮説を修正することを繰り返す。
飯舘村で会った村民の方々は、避難先から通いながら、放射線量軽減に対し、まさにこの科学者のアプローチを試みておられたことに深く動かされた。
後々、村民の方々が米の試験栽培や花卉栽培を行う様子を見て、農業とは毎年違う自然条件の中で、どうすれば最高の産物が出来るか考え実行し、その結果をもとに次の手立てを講じるという、科学者と同じ仕事の進め方をされていることに気づき、こういった姿勢が放射線対策の進め方につながっていたのだとわかった。
震災直後に福島に説明に入った科学者は、数学者タイプより物理学者タイプだったのだろう。話をなるべく単純にわかりやすくしようと、正確さを犠牲にした面があったように思う。結果として、きちんと勉強した住民に疑問を持たれ、科学者不信に拍車がかかった。
私の場合、受け入れて下さった村民の方々の農業に対する姿勢、科学者としての姿勢を最初に知り、大学レベルの内容でもじっくり説明した方がよいと気付くことができた。
そのうち、村民の方々の数人が放射線取扱主任者免状を取得した。
2012→2021 村民にも見える形で
2012年2月、東京工業大学の人材育成事業の引率者として、福島に学生を連れて行くことになった。
このとき、長泥行政区を含め飯舘村全体が計画的避難区域で立入禁止にはなっていなかったので、長泥を含む村内で測定実習を行った。
続いて2013、2014、2015年の3月、名古屋大学の人材育成事業を引率することになり、ふくしま再生の会で出会った村民の方々との対話を取り入れた。
2017、2019年2月には、京都大学の事業として自ら主催した実習では飯舘村をはじめ、福島市、浪江町、大熊町、富岡町の住民の方々との対話を測定と並ぶ柱とした。
第一原子力発電所の視察も行ったが、参加した学生は、飯舘村や大熊町の現状を知ることの方が大きかったようで、意義深かったと感謝されたが、残念なことに年を経る毎に参加希望者が減っている。
2014年4月より飯舘村周辺の市町村で、段階的に避難指示が解除され帰還が始まると、個人線量が問題となってきた。
2015年11月に開催されたふくしま再生の会の活動報告会で、「職業人用に、放射線が人体の前面から平行垂直に入射する場合の応答が個人線量当量となるよう校正されている個人線量計が、下側の地表全面から照射を受ける環境で正確なのか、測定値の2倍あるいはそれ以上になるのではないか」との質問があった。
実効線量とは人体の各臓器の体内での深さや放射線感受性を考慮し、各臓器の吸収線量を加重して全身の値として求めるものであり、比較的感受性の高い臓器が人体前面に偏在していることから、地表全面からの照射環境で被ばくする場合でも測定値を2倍する必要はなく、測定値をそのまま全身の実効線量とするのが妥当とされており、実際にこのように答えた。
線量計の誤差などもあり、実用的にはこれでよいのだが、より正確にどうなるかとなると、検討の余地がある。
この問題に対する論文も既に発表されていたが、2016年12月、いわゆる宮崎早野論文が出版(2020年7月撤回)されたのを機に、村民にも見える形で実証実験を行うことを提案し、ふくしま再生の会と共同研究協定を結んだ。
これにより休日以外にも出張として飯舘に行くようになった。
長泥、佐須、比曽行政区で実測を行い、さらに結果を確認するため、大熊町でも測定を行っている。
長泥や大熊で測定していると、近所の人や除染業者の人、警ら中の警察官に何をやっているのか尋ねられ、関連した質問を受けることがある。
結果を直接還元することは大事であるが、検証段階の仮説であることを付け加えることを忘れないようにしている。
これは最近のコロナウイルスに関する報道でも一緒である。
人間には信じたいことを信じてしまう傾向があり、ヒトクローン誕生に成功したと言われても疑うが、「STAP細胞はありまぁ~す」と言われると信じてしまう。
10年経った今と、先を走る者
この10年、事故がなければ行かなかったところに行き、行わなかったことを行い、出会わなかった人に出会った。
よいこと悪いこと含め、いろいろな人のいろいろな面を見ることになった。
事故がなくてもそうだったろうが、密度は異なる。
飯舘村を始め福島の方々にはかえってこちらがお世話になってしまった。
しばらく飯舘村にのみ通い、浜通りに行けていないことは心苦しかった。
私としては、飯舘村に加えてこれらの場所にもコミットしたい。
出来れば飯舘村民にも、先を走る者として参加して欲しいと思っている。
10年経って、ある種落ち着いた状況に達したと言う人も多いが、そうは思わない。
避難先から通っている人は多く、未だ帰還困難区域となっている地で営農再開を目指している人もいらっしゃる。
線量の多寡、取り組みが始まった時期により希望が叶ったり叶わなかったりするのを見たくはない。
1945→2031 広島と福島と私
もはや戦後ではないと言われた頃、広島に生まれ育った。
自分にとっても周りの同級生にとっても、原爆は過去、歴史でしかなかった。
小学校時代、転校生が前の学校の友達からもらったという色紙には放射能に気をつけてねと書いてあった。転校生本人も「広島に引っ越すと原爆の影響があると思っていたが、他の街と変わらないのでびっくりした」と言い、蛙の子達は世間の見方を初めて知った。高校の部活で遠征したときもそうだったが、さすがに戦後70年以上経過した今では、そうしたことはなくなっている。
自分のこうした経験から、現在そしてこれから生まれてくる福島の子供達には本当に同情する。風評に負けるなと励ましたい。と同時に、こういう境遇に負けずに育つ子供達に期待している。
10年後、制度が変わらなければ定年となっているはず。
何をしているかわからない。研究者を選ぶような性根が災いし、どこかで何か実験を続けているのかもしれない。
飯舘村を含む福島に関心を持ち続けることは間違いない。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?