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【同性愛と仕事】 マイノリティだから独立したのかも


 20代半ばに差し掛かったとき、私は新卒入社した会社を辞職して、独立しました。経験が豊富なわけでも特に秀でたスキルがあったわけでもなく、完全なる見切り発車で。


いろんなタイミングや事情があって、その先で決断した選択だったのですが、いま振り返ると理由の一つに性的少数派(セクシャルマイノリティ)だったから、ということがあるかもしれないと思うようになりました。


今回の記事では、そんな私の紆余曲折の一部を書いてみようと思います。



「みんな」の反応を探る私

 私の場合、個人で仕事をすることが元々の夢としてあったので、そのタイミングが想定よりも早まっただけでもあったのですが、最近ふと「もしかしてセクシャルマイノリティだったことも関係あるのでは?」と思うようになりました。


これは自分の憶測に過ぎませんが、理由としては、幼少期からの違和感というか周りとのギャップを色濃く感じていたということ。もちろん、それはセクシャリティに関してもそうだけれど、それ以外の考え方などについても。


だから、大きな組織である会社のような特定の集団に属するには、よっぽど自分に合っていないと続けられないだろうなと察している部分があったのかも知れません。


こんなことを話すと「あまり人と関わりたくなかったんですね」と言われることがあるのですが、私の場合はそうではありません。ただ、自分で人間関係をある程度選べる環境に身を置いておかないと、いずれ自分の心が壊れてしまうことを知っているから、その道を選んだのです。

人との出会いや交流は苦に思いません。仕事に関しても「仕事をしたくない」とも思わず、むしろ自分に合った仕事であれば、やりがいや楽しさも感じます。


ただ、幼いころから「男の子みたいで変だと言われる」「みんな男女で恋愛を語るけれど、私にはそんな気持ちがない」「もしかしたら同性が好きなのかも知れない」なんてセクシャリティだけに関しても、やっぱり自分だけがどこか違うみたいだ、といった気持ちを抱くことが多かったのです。

そんな自分の違和感を吐露してみても、友だちからは共感も得られず、私だけがオカシイのだという結論を口を揃えて言われてしまう。多数決を取ってみても、いつも自分だけが少数派。ということは、どうやら自分はオカシイみたいだ、みんなと違うみたいだなんて。

みんなと少し違うだけで、いろんな視線や言葉を投げかけられたり、不躾な質問を受けたりする。そこで消耗していく私の気持ち。


私は自分がしたいと思う格好をして、自分がしたいと感じる髪型にして、自分が好きだと想う人を好きなだけなのに。それだけで、求めてもいない部外者から望んでもいないアドバイスを受ける。いつも数で負けてしまうから、勝手に変だと決めつけられる。どうして。



Don't Disturb Yourself(どうぞお構いなく)


 そんな周りとのギャップを幼少期からずっと抱いていたので、私は大人に近づくにつれて個人で出来る職業を探すようになりました。自営業や専門職のフリーランスなどであれば、自分が望む働き方ができるかもしれないと。


ただ、多くの人が行く道と違う少数派の道を歩むと決めた以上は、自分で道を探さなければならない。踏みしめられた分かりやすい道ではなくて、一人一人が開拓していったような未開の道を自ら探して歩いていかなければならない。

大多数の人が歩む道をそのまま歩めるのであれば、それが良い。でも、その道を自分が歩めそうになく、周りとは少し違うのが自分なのであれば、それを活かせる道を探すしかない。そう考えて、個人で仕事をやっていくことを目指していたのです。


ただ、個人で仕事をするにしろ、まずは最低限のビジネスマナーだったり上司や部下との関係、社会のことを少しでも知らねばと思って、まずは会社員になることを選びました。会社員として数年間を過ごして、色んなことを経験してから独立しようと。


実際に会社に属して働いてみても、やっぱり自分にはとことん合いませんでした。仕事内容は好きだけれど、なにかが合わない。ただただ周りと自分が違うから合わないのです。


このまま無理にここに居たら、たぶん近いうちに限界を迎えるだろう。まだ冷静にそう考える状態のときに、私は会社を辞職しました。



ここでは「独立」なんてカッコつけた呼び方をしていますが、もっと単刀直入に言うならば、会社を辞めて個人で仕事をし始めただけ。それも未熟な状態で。周りから見ると、世間知らずがなに甘いこと言ってんだかという感じで、実際にいろんな人から辛辣な言葉も掛けられました。でも、個人で仕事をしてみたい! という若さゆえの情熱だけで私はその道を歩んでいくと覚悟を決めたのでした。




「当たり前」を刷り込まれる環境

 当時はそんなものだと自分に言い聞かせて思い込んでいたけれど、私が入社した会社での社内規則や従わなければならないルールには、セクシャル面でとても息苦しいものがあった。


たとえば、着用するスーツ一つをとっても当たり前のように女性はレディースーツを着用しなければならない。ヒールのあるパンプスを履かなければならない。どんな場面でも女性の役割に徹さなければならない暗黙の了解がある。それに従わなければ、後から注意を受ける。


さらに会社の人から掛けられる言葉には「玉の輿のために、早くいい男ゲットしないとね」「少子化だからね、頑張ってよ」「彼氏いるんでしょ?」「30代までに結婚しないと行き遅れるよ」「会計の◯◯くん独身だって」「社内の男子でだれがいい?」などのように、いつの時代なんだと悪態をつきたくなるような当たり前ばかりを押し付けられることも多かった。社内では、そんな下世話な話題を聞きたくないのにと耳を塞ぎたくなるようなものが嫌でも聞こえてきた。


表面上では「いやぁ、良い人がいるといいんですけどねアハハ〜」なんて受け流す。


以前の記事でも書いたけれど、私が入社した会社は昭和気質な社風だったため、女性はヒールにスカートでお茶出しが鉄則だった。女性であってもキャリアがバリバリと積める会社を選んだはずだったのに。入社前説明会と研修では「女性の活躍を推進!」なんて大々的に謳って、その言葉を信じて入社したのに現実はそんなものだった。



自分がしたいと思うことがどこまでも制限される。選ぶことができない。


もちろん会社にもよると思うけれど、私がいた会社ではすべてが選べなかった。窮屈な職場で働いたお給料で、着たくもない窮屈なレディーススーツのセットアップを購入する。履きたくもないパンプスにお給料の一部がまた消えていく。


ただでさえ家賃や食費、水道光熱費を支払って生活するのがやっとな手取りなのに。

せっかく頑張って貰ったお給料が、自分が欲しくもないものへと漏れていく感覚だった。

とある読んだ本によると、そういった自分の気持ちにそぐわない出費は「死んだ出費」と呼ぶそうだ。私の場合はパンプスやレディーススーツや通勤カバンなどがそれに当てはまるだろう。

その逆に自分が本当にしたいと思うこと、欲しいと思うものへの出費は「生きた出費」と呼ばれるそうだ。

欲しくない服やカバン、本来であれば「選べる」はずのものなのにと思いながら私はクレジットカードを切っていた。それらすべて、その会社で仕事を続けるためには必要だったから。でも、そんな日々が積み重なっていくにつれて、自分が本当に欲しいものにお金を使いたいという気持ちが膨らんでいった。私は「生きた出費」がしたかった。ひいては、自分のことを無視せず隠さずに、自分が望むものを自分に届けてあげたいという気持ちが大きくなっていったということだった。



考え方が止まっている人たち

 「最近の子って女か男か分からない子ばかりで、どうなっちゃうのかねぇ日本は。こんな発言もセクハラだ! なんて言われちゃうんだから、気をつけないとね」



社内で耳に入ってくる、そんな言葉。やめてくれ、聞きたくない。


私は心のスイッチをオフにして、会社の自席のパソコンに向かう。普通をとことん演じ続ける私の姿が、まだ真っ暗な画面にぼんやりと映る。中途半端に伸ばした髪の毛、気持ちに合わないレディーススーツ。その姿に自分で気が付かないフリをしてすぐにパソコンの起動スイッチを押す。画面に灯が灯って自分の姿が消える。これでいいんだ。きっと、これで。


Don't be a pretender



 私、いつまでこうしなければならないんだろう? このままここで働いたとして、あとどれぐらいの時間? もし同性の恋人ができても、この職場じゃ隠し通さなければならない。自分を隠して心を無視し続けて働いて、払いたくないものに出費し続けて、それでスレスレの生活を続けてどうしたいんだろう。


私、なんのためにここで働いてるんだろう


そう考え始めてしまったら、もう抑えきれなくなってしまった。今まで生きてきた間ずっと自分の気持ちの一部分を抑制して生きてきた分、いちど気がついてしまったら、もう我慢できなかった。


こんな窮屈な世界から抜け出そう、自分が思い描く世界を生きよう。だって誰かからそこの会社にいろ! その仕事をしろ! って言われたわけでもなく、選んだのはすべて自分だ。


私にすべての責任はあった。セクシャリティ以外にも、世間体がいい業種だからとか、エリートに見えそうだからとか、みんなから凄いって思ってもらえそうだからという理由で大企業のその業種を選んだ私の責任。周りの目を意識しすぎて取った自分の選択。でも、もちろん、そこには親孝行したいと願う気持ちであったり、そのキャリアで頑張ってみたいという本心の野望もあって将来設計もあった。それら全てひっくるめて全部自分だったのだから、それはそれで素晴らしいことでもあった。


ただ、その道を少し歩み始めて、また自分の気持ちをあらためて見つめてみたら、全く満たされていなくて、むしろ毎日ダダ漏れしてしまっていた。すべて満たされるだろうと思っていた先には、空っぽの内側だけが待っていた。


それに気がつけたのなら、面舵いっぱい!


いろんな人に相談しながら考えて、最後はちゃんと自分で覚悟を決めて、自分の手で辞表を上司に提出した。お礼と謝罪を伝えて、窮屈だったその会社を辞めた。




会社を辞めてからの変化

 会社を辞めて、だいぶ経ってからニュートラルな自分に少しずつ戻ってきた感覚がありました。考えることや話すこと、見た目、目に見えるものから目に見えないものまで。

ニュートラルな自分に戻り始めると、気がついたんです。以前の私ってすごい暗くてパッとしなかったなって。すべてが中途半端で、他人軸で行動していて、人の顔色や言うことばっかりを気にして。自分の気持ちよりも、ずっと「みんな」という特定の人でもない人に気を使い続けていたということに。


仕事に対する向き合い方も相まって、自分の気持ちを自問自答することが多くなりました。自分はなにが好きで、だれとなにをしているときにどういう気持ちで、どういったことが得意なのか、とか。

個人で仕事をするにはよっぽど自己が確立していないと難しいなと感じることが多く、金銭が絡む関係であってもブレない軸だったり、絶対に曲げたくはない信念を持っておかないと、すぐに全てが分からなくなってしまう。

頼れるのは自分しかいないのだから、ときには自分のためにちゃんと怒って、ときには自分を守るために逃げて、いつも自分を見つめ直す。より良い仕事ができるように、ひいてはよりよく生きるために、より良い人になれるように。


そんなマインドセットで生きるようになってから、私は少しだけ変わりました。


会社に属していないからといってストレスフリー! なんてことは決してありません。むしろ会社員だったときよりも、理不尽さに泣く日も、取引先から怒られる日も、仕事へのプレッシャーもはるかに多くなりました。会社という盾もないいま、自分を守れるのも鼓舞できるのも自分しかいないから。


でも、セクシャリティ面では少し解放された気がしています。


髪型や服装は自分で選べて、仕事でどんな役割を演じたいかも自分で決めて良い。さらにはもし恋人ができたとしても、二人で一緒に歩んでいけばいい。同性婚の現実問題などについては話は全く別ですが、自分の人生を自分で選べるような感覚があります。



その分、全責任は自分にかかってきてしまいますが。


もっとLGBTQ +やセクシャルマイノリティにとって、柔軟な社風や社会になっていくと良いなと思います。


Respect Yourself

※写真はイメージです、私ではありません


もともと地上に道はない
歩く人が多くなれば、
それが道になるのだ

中国の思想家、魯迅の言葉から一部引用


歩くから道になる
歩かなければ草が生える

相田みつをさんの言葉から一部引用


貴方には貴方の道があるように、

私には私の道がある。


Infinite Possibilities(無限の可能性)

ただ、それだけのこと。


せっかく生まれてきたのだから、周りに合わせて抑えたり、曲げてしまったり、偽ったりせず、貴方は貴方の道を歩んで、無限の可能性を開花させる水を注げますように。


(いつもスキやフォローをありがとうございます!! 猛暑がすごい日々なので、どうぞご自愛ください)

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