[メモ]アンチフェミさんのヒステリー列伝:呉座勇一・平林緑萌・與那覇潤氏らの集団ヒステリー
3/28
を参考に、同氏の名をタイトルに加筆した。詳述はしないが、当ブログの趣味に相応しき狂乱ぶりで評判なので。
以下走り書き。
科学好きや歴史好きには知られた小ネタだが「女性のヒステリー」だの「女性は感情的で男性は論理的」だのは科学の歴史に残るニセ科学の典型例で、実際には《そういう男側の》ヒステリーだ。
「そういう男側のヒステリー」。つまりそいつの無能さの現れだとは、男でも野心があるならば人間観察の知恵だろう。
中世の特権階級が、自分の心の問題であれ社会問題であれ「俺は高等で正しい。だから女性や異民族が悪い*」と切り離すような異常心理ともいえ、20世紀でも我が国のアジア支配や女性政策まで、多くの愚行を生んだ。
※我が国だと南北朝からそういう論客がいた記憶
今のアンチフェミニスト諸氏は、その歪んだ古い枠組みで量産されたしゃべる機械のようなもので、哀れである。
アンチフェミニズムが詭弁たる所以は、「他人は自分ではない」という初歩の論理性の欠如
言うまでもなく自分と他人は別人だから、基本、他人はあなたの支配に同意しない。
そして人は他人の良い支配者になれない。支配は忖度と保身による情報の偏りと判断ミスを生む。
それでも無謬性を主張するために神託や王権神授説に頼った時代を含め、良い支配者などいない。
しかし20世紀でも、人類はたとえば「皇帝を帝国と植民地の」「男性を女性の」「家長を家族の」正当な支配者という古代の迷信や疑似科学、あるいは「下が上に尽くすべき」と説くトンデモを前提におき、自他の区分や基本的な論理性を無視していた。
トンデモを前提に置く議論は、どう精緻に組み立てようが所詮は詭弁である。アンチフェミニズムは典型だ。
アンチフェミニストらが必死に挙げる根拠とやらも「我々は良き支配者」という、大昔から搾取と支配の正当化によくあるニセ科学の宝庫にすぎない。
先日の森元首相発言などへの内外のリアクションは典型で、アンチフェミニストの言動は今の世界では「男の側のヒステリー」「ニセ科学」と認識されるし、世の中に笑いと教訓を供給してくれる。
ニセ科学観察の流行としてのアンチフェミニズム・ウォッチング
アンチフェミニズムの主張は「支配者は論理的/男らしい/高等。下々は感情的/女々しい/下等。」という前提で事象を解釈する、古典的ニセ科学の宝庫だ。
「(男らしい)男性の優越」は元々古代の疑似科学で、20世紀には脳やホルモンでも説明を試みられたので、今でも時々見かける。ともあれ21世紀に入る頃、生物学的/医学的に根っこから否定された。詳しくは以前書いたので、要すれば参照されたい。
言い換えれば、古代から1990年代半ばまでは「男は女より正しい。俺は男である。故に俺もあらゆる女より正しい。」を不動の中心として事象を説明する天動説のような迷信が主流で、天動説と同様に、特に権威主義的な人々での集団ヒステリーが多発していたと言える。
今の世界の科学好き・歴史好き老若男女のトレンドは、そういう《男のヒステリー》を観察することである。
男なら今どき「女の人のヒステリー」だの「女の人は感情的」だの、どちらも恥ずかしくて言えたもんではない。
言う人を見かけると、他人でも本当に恥ずかしい。
アンチフェミニズムとは
アンチフェミニズムをさらに少しだけ詳しく説明すると
「我々(例・男性)は男らしく(注:ニセ科学)、良き支配者であり(注:ニセ科学)、文明の主役である(注:ニセ科学)。我々の支配が被支配者(例・女性)を守っている(注:ニセ科学)。我々の支配は天地自然の理なので(注:ニセ科学)、反発は異常である(注:ニセ科学)。」
という前時代的なトンデモの集大成で、そのため人種差別や植民地支配美化や歴史修正主義と親和性が高い。
さらに東洋的なアンチフェミニズムは「我々は男らしい男で高等。女っぽい奴らは下等で、男らしい男の偉業のために犠牲になれ」という誇大妄想が加わる。仏教や儒教の思想は畢竟そういうもので、西洋でも19世紀思想やファシズムに大きな影響を与えた。
「男らしさ」崇拝と男性への過保護、女性その他への搾取はファシズムの政策立案の基本方針であるため、日本やドイツ、イタリアのほかスペイン、ポルトガルでも今も根深い。たとえば女性を専業主婦化し社会インフラにする政策を進め、少子化を招いた。
日本はもとより世界の現代人からみれば、それこそ人類の大半を潰し、文明の進歩の機会を潰してきた愚行なんだが。
従来の社会の女性蔑視依存
日本などファシズムの国は特に女性依存がひどいが、日本に限らず、従来の男性社会は女性蔑視に依存してきた。
・女性虐待が治安維持施策
→人々が社会への不満を、女その他被差別集団を叩いて発散できるよう(そのためにも女などが逃げにくい)仕組みを作ったもので、世界的に中世後期から激化した。日本の遊郭や従軍慰安婦などもこれ。
・女性虐待が娯楽の基本
→日本は自他の区分も自由意志も、他人(とくに女性)の尊厳も重んじない文化なので、この点、かなり極端である。
対照的に、たとえばイスラム文化の場合「女性が自分の思うとおりになるポルノ的な空想は、基本、女性に失礼だ。なぜなら女性は自分とは他の人間で、人間には自我、自由意志と尊厳があるからだ。」と認識していたりする。
・女性虐待が産業の基本
→日本の例・生糸。養蚕から製糸、荷役に至るまで全工程で女をタダか格安で酷使して作られ、主力輸出商品だった。そのカネで軍備を拡張し、男のヒステリーじみた戦争をし、負け、また女に国を救ってもらった。要は仏教国によくある「しっかり者の女と空想がちな男の国」が戦前の日本の実像である。「普通の日本人男性」のセルフイメージと現実は異なる。
・女性虐待が福祉の基本
→例・「日本型福祉社会」
・女性虐待は非常事態へ対応する際にも基本
→一般的に、社会を守るのは女性である。男性は「妻子を犠牲にしてでも偉い人を守る役割」だったりで、あまり社会を守らない。このことは社会を守るあらゆる老若男女の常識だろう。戦争でも災害でもカネにならない真に大切な戦いは女性が担う。そのために社会ぐるみで女性の逃げ場を奪ってきた。言うまでもなく女性も人間なので弱者を守らないケースも多々あり、その場合本当に悲惨。
・女性は被差別集団なので、一般にカネと名誉にならない危険で不安定な仕事を担い、同じ業種でもカネと名誉になり安定し安全になれば男性が占める
→戦争史でみても、古代ローマに抵抗する諸族あるいはヴァイキングや匈奴など「必要な戦い」か「強くても給料が出ない戦い」の場合は女性が主力か男女混合。給料がでて比較的安全な古代ローマ軍は男性のみである。
同様の傾向は世界中で見られ、男性が学者を占めていた頃は先入観と当時の男尊女卑(つまり女性はカネと名誉の記録が残りにくい)により気付かれずに来た。戦が安定した賃金を伴う職となり、男性への統制手段として普及した近世・近代までは、身軽さ重視の兵種や雑兵や重労働なら女性が半数を占めてもおかしくない。日本の中世もおそらく同様で、
今どきアンチフェミニズムなんぞ世界の中世史学者から正気を疑われるか、国内でも粛々と「…あいつ知識ないし、バカだよな…」と下剋上を狙われる。
・女性蔑視が男性の精神衛生と団結の鍵
→「俺たちは完璧で「最も男らしい」民族。よって、社会問題は女と異民族(通常、勝手に「男らしさ」を欠くとされる)のせい。」「真の男である証明のために女と異民族を叩け」というヒステリーは古今東西よくある。高度経済成長期以降の日本でもたびたび女叩き本が流行ったことは現国年表レベルの常識だろう。
と書き出してみるとつくづく情けないが、みごとなまでに女性蔑視に依存している。
中世と男尊女卑
男尊女卑は古代の政治哲学でも社会の基礎として重視された、身分制の安定装置である。
ただ女性蔑視と男尊女卑を活用しての男性支配は、古代に思想的基礎があったとはいえ、洋の東西を問わず中世後期ごろから激化した。これまた常識だろう。
身分制度による支配という「無能による支配」の仕組みを守るためには、支配者は下剋上を避けたい。人々が無能な主君を気軽に見限る事態も避けたい。下々が夫の片稼ぎの片肺飛行でいてくれると、妻子を人質に取れてありがたいのだ。
みんな荘園で生まれて死ぬ時代ならともかく、中世後期からは人口の移動が激化し、広域での人々の組織化と無力化、支配が必要になる。そこで男尊女卑が活用された。
人々を叛乱者予備軍とみて、特に男からは根性も土性骨もへし折って、お上への不満があっても女子供を殴ることで満足したまま老いて死ぬクソみたいなDV野郎へと、全男を貶める施策が男尊女卑だ。
当たり前だが女性を守ってなどいないし、男の夢にも邪魔でしかないし、民主主義社会や科学技術や人道の発展の邪魔である。
なので、たとえば彼ら「普通の日本人」や他の世界の男たちがどうフェミニズムを叩こうと、他の日本人と世界の反応はこうだ。
「蔑視ありきだから、理屈はどこにでもつくんだな。」と。
ゆえに、アンチフェミニストは世界の中世史学者から正気を疑われバカにされ、国内でも粛々と「…あいつバカだな…」と狙われる。
当たり前だが、
1980年代のような「女性への普通の扱い」は今、奴隷制や植民地支配と並ぶ巨悪として認識されている。
理屈が植民地支配そっくりなので、アジア・アフリカのインテリもアンチフェミニストが大嫌いだ。
個人的にも、女の人が感情的になってる様子は冗談にならないが(感情的になることは境界の侵害を認識した当然の反応であり、自他の違いは論理性の基本だ)、
大の男が自分で問題を直視せず、他人を自分の手足のように勘違いした結果、当然女の人や若手に自我境界を主張されてキレ、文字通りのヒステリーを起こして「俺は冷静!女のヒステリー!」と叫んで群れる様は、いくらでも延々と笑える。
アンチフェミニストは自他の区別が曖昧なヒステリー持ちなので男でも近づかないのが吉
日本もそうだが近現代社会は産業から政策まで、帝国市民的な男性保護と、女性その他の人々への資源扱いの上に成立している。
アンチフェミニストはその性質上、際限なく保護と共感を求め、自他の区別が曖昧で、他人の労力に感謝せず、平気で使うタイプの人々が標準だ。彼らが叩く「フェミさん」「まんさん」像に近いが、あれは彼ら自身のよわさの投影なのだ。まさにヒステリー。
身分制度の崩壊後も男尊女卑は続き、根拠は
「身分制度はダメでも、帝国市民男性は女性や子どもや異民族の良き支配者のはず。男性を守れば他も守られるはず。」
という身分制度そのままの迷信である。
むろん人間は立場の弱い他者には残酷である。産業史でも男性は女性や子どもを搾取してきたし、戦争ですら、金と名誉にならなければ女性や子どもにやらせる。今でもテロリストなんかそーですね。そして歴史上重要な戦いは女性が担う。別記事でも書いたが。
それが現代人の教養なので、何人でも男でも女でも、フェミニズムは反植民地主義くらいに当然だと思っている。アンチフェミニストがいたら、危ないから男でも近づかないほうがいい。
我々は万人平等の時代の初期、ちょうど奴隷制終焉の時代のトムソーヤやハックルベリーフィンと同様の時代に生まれ、解放奴隷同然の不自由な身分の母親たちのもとに育ち、社会が女たたきを娯楽とし社会問題を女性のせいにする愚劣さや、男尊女卑に依存する産業や政策の巨悪をみながら育ち、わずかでも「空気」でも、平等を目指してきたはずである。
そうして次代に少しでも生きやすい社会を遺すことが正義だろう。
そんな世界で
「女のヒステリー」などという、「奴隷の反抗は異常」だの「支配が奴らを守っている」的なトンデモは、男ならむしろ恥ずかしくて言えない。
恥にとどまらず「女のヒステリー」は男性個人の心の問題から社会問題までを女性の問題として処理する学問の枠組みで、男のヒステリーを今でも量産する思想だ。そんなものを今、言えるかね。
「女性は不安定」説と同様に「古代の偉人が言ったから」と代々大の男たちが検証もせず、20世紀末まで信じてきた俗説(既出)を、いまさら言えるかね。言えやしない。
中世史学者らの脳内が中世である、という問題
「女性のヒステリー」説は、さっきも書いたが
「俺たちは高等、俺たちは良き支配者」という思い込みを中心に世界を説明する天動説のような壮大な疑似科学の一端
で、他地域や他集団間でも、特に中世から広くみられる。
要するに自分と他人の区別や、自分と世界のがついていない。
そのためアンチフェミニズムは基本的に論理性を欠く。男尊女卑の性質上、主に男に多く見受けられるヒステリーであり、しかも「自称論理的」なので、アラバマでも日本でもアフガンでも笑いものにされる。
ご存知の通り、この手の「女性/庶民/異民族etcは感情的」説は、
「貴族は高等で苦悩に満ち、庶民や女は気楽」「俺たちの支配が奴らを守っている。反抗は異常である。」説
ともども特に中世以降の世界で広くみられる錯覚であったし、19-20世紀の世界には世界規模の悲劇を生んだ。
とりわけ女性については20世紀末まで高名な男性たちの相当数が言い張り、文系・理系の各種実験/研究※から法や政治にまで甚大な被害を及ぼしたことへの反省は、今の世界の大前提だろう。
※「女性やメスは生物学的に不安定」などの迷信から男性やオスをサンプルとして重視してきた。実際にはただの古代の迷信で、現代の研究もその迷信が前提だったが、今世紀に入る頃「理論上、あるはずもない(むしろ逆)」と確定したので見直された。
歴史上最大級のスキャンダル
へんな男たちが自画自賛で男尊女卑の利益と科学的「エビデンス」を説いたり、はたまた「科学的な男らしさと女らしさ」を階級差別や人種民族差別の説明にまで持ち込んだ挙句、
実は遺伝子であれ脳であれホルモンであれ、男尊女卑と女性差別の根拠にならないどころか
ヒトは性別自体がほぼ無意味。性別はただの、出産やスポーツなどの区分。ある男性科学者が有能だとすれば、その人が女性の一種だから。人類はただ女性とされる人々を潰してきた。
と確定したのが20世紀末の出来事だ。詳しくは前に書いた。
千年単位で続いた男の偉人たちの説の崩壊、男の偉人たちの大敗北。痛快でもあるしブザマでもある。
このブザマさと集団ヒステリーは歴史の教訓として、未来永劫語り継がれるだろう。
科学を好む人には真理であり、左翼にも正義であり、無神論者にも科学の勝利と迷信の追放劇であり、創造主を信じる宗教の保守でも神の真意。人間の性別がほぼ無意味で内面的な能力も男女平等か女性有利と分かった以上、フェミニズムはそういうものだ。
今どきアンチフェミニストは極右だけ
今やアンチフェミニストなどは、教養が今どきの義務教育レベルにおいつかない人々か、女性蔑視に依存する変な宗教信者である。
むろん古代や中世には
「男が女を支配し、王が庶民を支配する上下の確立こそが平和の礎。」的な政治哲学
が主流だった。
今や「女のヒステリー」説は完全に消えたどころか、社会も男性の心の持ちようも、全面的な見直しを迫られている。
男尊女卑は身分制支配の基本でありそれじたい歴史上重大スキャンダルであるが、支配にはそういう疑似科学が多いのだ。
それでも、アンチフェミニズムとミソジニーの人々(むろん主に男性)がすがってきた「男女の違い」論どころか、メインストリームの哲学から医学までが千年単位で延々とインチキの山だった、と確定して30年近く経つ(これも詳しくは既出)。
世界中どこでも、男社会は男が多い分だけ、畢竟、女に守られきったニセ科学信者とヒステリックな無能の山である。
どの国もだが、日本の企業も研究機関も大学も、西洋のみならずアジア・アフリカの男性たちからも、そうみなされている。
もとより支配者は庶民よりも優秀ではないし、良き支配者などいない。昔は神託や王権神授説などの宗教的発想や、血統の優越という疑似科学でごまかしていただけだ。
ある階層やある民族が、他よりも生まれつき優秀である可能性もない。男性が女性よりも正しく判断できる可能性もない。当然、悪政だらけになるからこそニセ科学に頼り、差別を維持し、しわ寄せを背負わせてきた。
今だと自称「トランスジェンダリズム」なども好例で、結局シス男性による彼ら以外への旧来的な虐待/搾取の場になりけている。
ジェンダーは社会が人に割り振った性別である。近代社会の基礎が作られる頃、社会契約論のほか教育論でも有名だったルソーは、男児の持ち前の美徳や才能、野心を伸びやかに育てる教育を説きつつも
「女児には、可能な限り早期に絶望させるべき」
と考えていたし、同じ頃の日本人は「女性は全員地獄行きだ」と教えていた。共に「なので搾取を受け入れろ、タダで尽くせ」という理屈である。今の社会はその延長線上にある。
これが社会的性別であるジェンダーの恐ろしさだ。
ジェンダーは出生時点の外見をもとにヒトを支配集団と被支配集団に割り振った区分の一つであり、おそらく未来永劫「結局こいつらも男のヒステリーと、政策レベルでの女性蔑視依存と、『俺たちが女を守っているのに生意気』っつーファンタジーか」で切って捨てられるし、そうなりかけている。
アンチフェミニズムも30年前なら主流だったろうが、今ではカルトか、一般市民の笑いのネタ以外に居場所はないのだ。
筆者もフェミニズムはよく分からないがアンチフェミニズムはバカだと知っているし、迅速かつ徹底的に滅ぶべきだと信じている。
男性側の気の持ちよう
今どき「男らしい論理性や冷静さ」だの「女性の感情論・女性のヒステリー」なんぞ言うやつは、通常、男性側がヒステリーとして認識される。
なので男でもよう言わん。
古代から続いた、男の自画自賛と女への責任転嫁が教養だった時代が終わった今、じゃあ現代の西洋先進国やアジア・アフリカのインテリはどう考えるのか、というと、
まず問題に接して「感情的になる」のは生き物として正常な反応かつ論理的思考に不可欠なので、まず、自分のそれも他人のそれも、正常と解釈する。
お互い、相手の感情を世話する必要はない。
昔の男性のような「俺は冷静!お前は愚かで感情的だからお前の問題!」などというヒステリー的な反応を避け、こう考える。
「俺には今、その感情を持つキャパシティが足りない。よって、今は解決能力がない。」「俺《が》パニックを起こしている。」
ふつう5秒くらいこらえればパニックは収まる。
従来のえらい人(主に男性)は、感情を持つ能力を欠いてもパニックがちでもママや部下が問題を解決してくれたのだし、そんなときも男尊女卑があれば
「ぼくの部下や庶民や女性が感情的だから悪い。ぼくは理性的で解決思考なのに。」
と暗示をかける思想や疑似科学にも事欠かなかっただけだ。
今の世界の男らしさとは、そういう歴史を踏まえた自戒の上にある。
これが歴史修正主義へ進むと
「何らかの階層や集団and/or男性は、他より男らしい。つまり他より高等で文明の主役である。」
「男らしい男たちの文明と戦いが、女性and/or庶民や異民族や奴隷を守ってきた」
とみる。
そのような古いカドカワ映画やNHK大河ドラマ的な歴史観は、結局は典型的なニセ科学だ。
そういう西洋騎士道ファンタジー風味の
「支配者が被支配者を守り、男性が女性を守ってきた」
と言う世界観、つまり植民地支配や奴隷制さながらのニセ科学は大日本帝国などのファシズム国家の政策理念だった。また、工業化社会で貧しい単身男性をターゲットに発達したポップカルチャーにおいても、「男が女を守る」ファンタジーは人気の定番でもあった。
世界史には自らを良き支配者と思い上がった例は山ほどあるが、20世紀の男性もその一例だったのだ。
現代世界の歴史好きの人々は、アンチフェミニズムを歴史上の巨悪だと認識している。
21世紀の歴史好きは、NHK大河ドラマ風味の「男らしい男の戦いが文明と歴史を作る」的な安っぽい歴史観に用はない。網野善彦が多少古かろうが、網野善彦に用がある。脇田晴子はさらなり。
そんな世界において、呉座雄一(祐一?裕一?)という人は、真面目な歴史よみならば多分、まず知りもしない人物だろう。筆者も知らないのでググった。
筆者は子供の頃から家族で岩波などの日本史や世界史全集を定期購読し、届くたびに繰り返し読む家に育った。
そもそも歴史学の専門家というものは、多数並ぶ別々のタコツボ内に定着した個々のイソギンチャク同士のように生きる範囲と視界とエサが異なり、地域や分野や時代が少しずれると専門家同士でもお互い「こいつ、こんなことも知らんのか」と噛み合わないものだ、と知っている。ボルヘス『バベルの図書館』の棲息者たちのように。
専門家は歴史の細かい分野を深堀りし考察する仕事でキリがないから、より広い地域と時代について比較的新しい有力説を網羅する可能性で言えば、それこそ全集マニア的な市井の素人のほうが専門家よりも有利だろう。
専門を大きく外れると、ナショナル・ジオグラフィック定期購読者にすら負けかねない。
多くの男性があたかも標準のように口を揃えて呉座氏に失望しているあたり、現代だなあ、と感心する。
筆者は歴史が好きなので、呉座勇一氏の名前を今後見る可能性はないだろう。多くの歴史好きが、司馬遼太郎氏や塩野七生氏の著書を別に読まないように。なので、いつもの男性の集団ヒステリーの事例のメモを兼ね、この記事を残すことにした。
ともあれ呉座氏の騒動を見ていて改めて気付かされるのは、女性蔑視に心理を依存する男性たちの脆弱さと無学さ、無様さだ。
男尊女卑の文化や疑似科学によって、自分や男仲間の愚かさや卑しさを「女らしさ」や「女性」の悪として解釈しがちであること
古代からある「男は強く正しいが、女は弱く邪悪」的な人間観は、歴史上、男性の集団ヒステリーをくり返し発生させてきた。男性文化はヒステリーを起こしやすい文化ともいえ、実害が大きい。
という現代のものの味方がいちいち妥当だな、という現実である。
つくづく
中世ファンタジー男たちのファンタジー思考や、アンチフェミニズムやミソジニーは根深いのだなあ。
ちなみに
筆者は「日本の中世は明治維新と昭和の終戦の二段階で終焉を迎え、明治維新までは全国民が奴隷状態で私有財産すら曖昧だった」という意見
である。奴隷状態だったからこそ、河川交通すら江戸時代には発達せず、隆盛は明治以降という体たらく。
また私有財産の概念ですら終戦でGHQに色々言われるまで墾田永年私財法と基本は同じ、私有のていでも国の財産扱いだ。
最近も「国債は国民にとっては債権」という謎の発想を見ているとそう思う。なぜ国民の資産を、市中銀行経由とはいえ、まったく別人のはずの「国」の借金と同じバランスシートにのせるのか。踏み倒す気だからだ。
特に女性への奴隷扱い(みなし)と国有財産扱い(みなし)は、政策レベルで今も前提である。ろくでもない。
歴史序説
古代人でも現代人でも痛覚や空腹感や尊厳を持つものだし、支配は必然的に悪政を生むから良き支配者などいないし、自他の境界が曖昧な中世思想でも、実際の各人と他人や世界は別の存在である。
その点でこの世には普遍的かつ絶対的な正義が存在するし、そもそも真実は人間の思惑と無関係に存在する。人間は誰も絶対的な正義や真実に到達できず、それぞれ相対的な位置に立つ。
それでも誰しも絶対的な正義を侵害されると嫌なので、記録を残せる者は、侵害された記録を残す。
前に書いた10歳そこらの赤毛のアンが暗証するほど好きという設定の詩すら、辺境の民族の抵抗と無残な敗北をうたった詩だらけだ。
文明は常にその時代の田舎者が作るし、歴史は敗者が作る。
歴史学不毛の地、日本
ヘロドトスや司馬遷、旧約聖書からハルドゥーンまで、もともと歴史とは敗者や弱者、あるいは辛勝した弱者が、めいめいに語るものである。敗者や弱小は記録をろくに持たず、代わりに物語をもつ。
嫌な話だが、平民竹田氏や百田氏によくあるクオリティの独特な歴史観なども、そういう弱者かつ敗者ならではの意義ならあるのかもしれない。
逆に、オリエント古代文明の昔から近現代のパクス・ブリタニカやパクス・アメリカーナまで、大国や勝者は歴史捏造どころか自らの歴史を語る必要性じたいを感じないものである。
勝者と大国は総じて「歴史」を軽んじ、歴史よりも神話と、莫大な公文書の保存と管理に興味を持つ。おかげで歴史家が助かる。
膨大な敗者・弱者がそれぞれの多様な主観で歴史を語る。少数の勝者は、莫大な文書を残す。
その結果、どの国もどんな強者も、歴史を捏造することなどできない。孤立した島国ならともかく。
それらを突き合わせるところに近代歴史学の存在意義があるのだろうし、市民一人ひとりが騙されないことに、歴史教養の目的がある。
日本ほど地理的に隔絶されてすら、勝者が歴史を捏造することも、自他を騙し続けることもロクにできない。
しかし、地理的に近隣からのツッコミ合いが従来とぼしかった我が国には、捏造できると思う人が相当いるようである。
世界的にわかりにくい文化
日本に独特の文化などそうそうないが、
「歴史は勝者が書くもの、勝者が捏造するもの」と思い込む独特の文化
古今東西を問わず、人間は腹も減るし痛覚も自由意思も尊厳感情も共感も持つ。それらへの害は過去でも他文化でも現在の価値観で裁いて良いのだが、「過去を今の価値観で裁いてはならない」という謎の信念
がある。
ゆえに20世紀に入っても我が国では、大の大人と権威がこぞって歴史捏造に突っ走った。歴史好きな人ならば全員ご存知のとおり、端的には明白な嘘であるが。
終戦までの日本の歴史学は、大の男が捏造と集団ヒステリーに突き進んだ典型であり、歴史の捏造に失敗した者が、短期的に成功しても恥をかくだけだという生きた証明だった。
我々はそういう国に育ったのだ。人々特に男性の集団ヒステリーには、重々気をつけたいものである。
中世の領主さながらの世界観
20世紀途中までは「良き支配者」の実在を説くニセ科学と歴史修正主義が普通だった。
20世紀後半の女性観は典型で、帝政や植民地支配も同じ発想による。よって、現代の世界では別にフェミニストではない老若男女たちにおいても、全く棄却されている。
20世紀初頭は先進国でもまだ帝国が多く、人々が優秀さを「男らしさ」だと信じ、国で最も「男らしい」家系こそが皇帝一族だと信じ、「庶民などは歴史の主役たり得ない」と信じていた。
「文明は特権階級が築き、戦い、守ってきたのだ」という、今ではアホらしい歴史観だ。
その数十年後には、庶民のうち男性は、「文明は男性が築き、男性が戦い、女性を守ってきたのだ」というファンタジーを現実だと思い込むことに成功した。
世界的に、中世の領主というものは
「自分らは優秀かつ知的で理性的な生まれだ」「被支配者は劣等で感情的な生まれで、支配が彼らを守っているのだ」「庶民は感情的だし、感謝を知らない」と思い込みがち
なものである。
今回問題になった彼らの言うことは、それと相似の、結局は男性側のヒステリーと妄想、ファンタジーに過ぎない。
無価値である。今はもう通用しない。
カドカワ的な、極めてカドカワ的な
真面目な歴史好きは、筆者ふくめ、カドカワ絡みの人と聞いた時点で「徳間絡みの人※」くらいには苦笑いする。
※アニメージュ誌とニュータイプ誌は貴重な例外
中曽根康弘氏がらみの研究所、と聞いても苦笑いしか出てこない。
真面目な本読みの人生においては、今回話題の人とその取り巻きの名前など目に入ることはないと思う。
筆者も、彼らがネット上で男にありがちな集団ヒステリーを起こしている様子をみて初めて知った。このメモ以降は忘れると思う。
おまけ 悪い女とアイルランドの神話
さっきも書いたし日本人なら常識だと思うが、よりによって我が国は現代でも神話を歴史より優先し歴史を蔑ろにした、歴史学不毛の地である。
今回の彼らが男のヒステリーを起こして叩いていた人に縁のあるアイルランドでいうと(詳しくないが)、日本神話に酷似した国産みあたりから無理な計算で捏造年表を書き起こし、メイヴやクーフーリンあたりの時代に建国した設定とし、20世紀にもなって建国2600年と説くような愚行だろうか。
それぐらいのお笑いを日本はやった。あらゆる日本人への愚弄としか言いようがない愚行を、日本の歴史学は精算したのだろうか。いやー当時の内部にも反対した人はいたけどさー
口直しに、悪い女とアイルランドの神話をおぼろげな記憶で書いておこう。
〜〜
昔、緑の島エリン(アイルランド)にメイヴという邪悪な女王がいました。
実は女王メイヴは、この世の狂気を司る悪の三女神の一柱でもありました。彼女が司るものは酩酊の狂気。戦争の狂気を司る姉妹もいます。厨二設定っぽいですね。
あるとき女王メイヴは旦那さんとの牛比べ勝負に凝り、強い牛を近隣から借りることにしました。悪の神のクセに庶民的。
でもメイヴは悪人ですから、「貸して」と頼むのはポーズだけで、基本方針は「先方を殺してでも強奪」です。
でもメイヴは悪人ですから、そんな彼女の使いの者は酒でも飲まないとやってらんない。道中で酒に酔い、「基本ぬっころして強奪する方針」を喋っちゃったからさあ大変。当然、戦争が勃発します。
でもメイヴは悪人ですから人徳がありません。前線はたった一人の少年に一任されました。どこぞの氏族の愛犬を怪力ゆえに死なせた後悔で「氏族の犬」と名のり忠実に仕えているという曰く付きの少年です。
でもメイヴは悪人ですから彼の恩人であるはずもないし、勇者も16歳の男の子ですから、戦いよりもおデートやお洒落※や、おやつタイムを優先して頻繁に前線からいなくなります。一人きりの戦力なのに!
※この勇者のお洒落も厨二設定ぽい
はてさて、世界の狂気を司る現人神、極悪女王メイヴの運命やいかに。
〜〜〜
なんか色々違うかもしれませんが、
自国の支配者を美化せず、自分と他人の区別がある。現代的な文学の2条件(既出)を満たすし、普通に日本神話より面白いですね。世界には、そういう神話がたくさんあります。
日本のアンチフェミニスト諸氏も、いつか教養を身に着けて、ミソジニーを捨て、世界の人に読んでもらえる日が来るといいですね。
どっと払い。