眠るように
子どもと布団に入る毎日は、ルーティーンの連続だ。
布団に入ると、まずは「楽しかったこと3つ」挙げる。子どもがなかなか言おうとしないときは、「じゃあ、ママから言うね」と言うと「ダメ! わたしから!」とあわてて口をはさんでくる。実際、子どもは自分のことをまだ名前で呼ぶ。「わたし」を促してみたが、すぐ名前呼びに戻ってしまったので今は放っておいている。
子どもが3つ言い終わったら、私の番だ。私が言ったのを聞いて、「あ、それわたしも言う!」と楽しかったことが一つ増えると、「ママ、きょうは4こ言っていいとよ」と私も4つになる。このあいだは結局7つ言う羽目になった。
先週末、寝る直前に子どもがお茶を布団にこぼしたり、ペンを持ったまま拍手して手にペンがささって血が出たりとハプニングののち、やっと布団でいつものやりとりがはじまった。この日選んだひらがなは「だ」。「だ」のつく単語を交互に言い合う。ひとの名前やキャラクターの名前、「だけどね、の”だ”」「いいんだよ、の”だ”」も入れて良いらしい。私が「おだんご」「だしまきたまご」「だっそう」「だくてん」とつづけて挙げて、ふと目を開けたら子どもは眠りに落ちていた。目を瞑って、唇がわずかに開いたその顔を眺めていたら、ものすごい多幸感が私のなかから湧いてきた。
死ぬときもこんなふうであってほしい。
強烈にそう思った。おしゃべりしてたらふと意識が途切れてしまったように、眠るように息を吸って、そのまま息を引き取りたい。「引き取る」という言い回しがあるくらいだから最期は吸って終わると思ったが、実際はどうなのだろう。もしはいて終わるのだとしても、こんなふうに穏やかに和やかに生を閉じたい。
「眠りは小さな死」というのは本当だ。同時に、寝ることの怖さもひしひし感じた。我が子は、どういうわけか生まれたときから眠りにつくのを好まない。布団に入って瞼が下りてくると、そのたびカッと目を見開いて起きていようとする。私の気配がなくなると、光の速さで起きる。寝ているのにどこかのセンサーはついたままなのか、寝たと思ってそっと私が起き上がると必ず子どもも目を覚ますのだ。「子どもが寝たら自由時間」とならないのは、なかなかにしんどい。
何はともあれ、子どもが寝ることを好まない理由がわかった気がした。子どもの発達を専門としている方に「この世に来て間もない子どもにとって、意識を手放すって怖いこと」と以前聞いたことがある。子どもにとって意識を手放すのは、少なくとも我が子にとっては生を手放すこととおんなじなのだ。そのことを、頭でなく身体で私は理解した。目の当たりにして初めて、「あ、これのことか」と合点がいった。
「明日もちゃんとやってくるよ」と子どもを安心させたくて、最近は時折「明日楽しみにしていること」をお互いひとつずつ言ったり、「明日の朝は、いっしょにいちご食べようね」と予定を話して眠りにつく。いつかその恐怖がほどけて、水に溶けるように子どものなかから無くなったらいいなと思っている。