【シリーズ化なるか】折角書いたレポートを、教授に提出するだけではもったいないので、発信してみる試み。
実にタイトル通りである。(ただ、原文のままではなく、少し口語っぽく改変・省略した点はある。)今回は「学ぶこと」について哲学してみた。
今回のレポートでは、「学ぶこと」をテーマとして選んだ。その中でも「これからの学ぶ態度」について自身の考えを述べたい。そのためにはまず、「学ぶこと」のその輪郭について考察しなければならない。
学び、二種類説
「学ぶこと」について考える上で私がまず重要だと思うのは、「学ぶ」という行動のそれぞれを「それが自主的か否か」によって二つに分類することである。今回は、一般に「学ぶ」と呼ばれる行為の中でも誰かに言われて取り組む受動的なものを「勉強」、そうでない能動的・自主的な性格を持つものを「学習」と定義することとする。
例えば、嫌々学校で受ける授業は「勉強」、一方で興味対象について図書館で調べ物をすることは「学習」と分類する。 これら二つの類似概念は、知識が身に付く可能性があることは主な共通点として挙げられるが、その定着度については既に「勉強」と「学習」で相異なる。他にも「勉強」と「学習」には、事務的か趣味的か、成績などのためか好奇心のためかなど、その態度や目的に大きな相違点がいくつも認められる。したがって、それぞれを為す時に求められる能力と、為した後に得られる能力は高確率で異なっていると推察できよう。しかし周りを見渡すと、二つの違いを意識的に捉えようとする人は意外に少ないのかもしれない。
AIの射程圏内に留まらないために
これを踏まえて、「これからの学ぶ態度」について考察していきたい。これは、学生と、学ぶ手助けをする教育者の双方が考えなくてはいけないことである。
「人工知能(AI)によって職業が奪われる仕事・奪われない仕事」というのはここ最近頻繁に耳にする議題だ。そして実際、過渡期にあるといっても過言ではないこの時代、特に現在の学生以下の年代は、AIに奪取されない職業に就くことを念頭において学ばないといけない。その鍵となるのが、仕事に就くまでの限られた時間でどのように学ぶかにあると私は考える。なぜなら、先述の通り「勉強」と「学習」では得られる能力が異なるため、その配分が非常に大事だと思われるからである。
基本的に、一生懸命「勉強」をすると知識や、それを運用する技術が手に入る。「学習」すると、知識と、それについての自分なりの解釈が育成されると考える。学校に類する施設において、いわゆる「成績が良い生徒」とされるのは圧倒的に「勉強すること」が得意な方の人間である。なぜなら今の典型的な学校では「勉強」ばかりが重視され、試験も「勉強」の成果を問うものがほとんどだからである。外山滋比古は著書「思考の整理学」(1986)の冒頭の章、「グライダー」において「学ぶこと」についてこう述べている。
「ところで、学校の生徒は、先生と教科書に引っ張られて勉強する。自学自習という言葉こそあるけれども、独力で知識を得るのではない。いわばグライダーのようなものだ。自力で飛び上がることはできない。
(中略)
人間には、グライダー能力と飛行機能力とがある。受動的に知識を得るのが前者、自分でものごとを発明、発見するのが後者である。両者はひとりの人間の中に同居している。グライダー能力を全く欠いていては、基本的知識すら習得できない。何も知らないで、独力で飛ぼうとすれば、どんな事故になるかわからない。
しかし、現実には、グライダー能力が圧倒的で、飛行機能力はまるでなし、という“優秀な“人間がたくさんいることもたしかで、しかも、そういう人も“翔べる”という評価を受けているのである。
(中略)
グライダー専業で安心していられないのは、コンピューターという飛び抜けて優秀なグライダー能力のもち主があらわれたからである。自分で翔べない人間はコンピューターに仕事をうばわれる。」
長々と引用してしまったが、この文章は私が「どのように学ぶべきか」について考える契機となったもので、1986年刊行とは思えないほど現代でもそぐう文章である。引用の中の「グライダー能力」がまさに「勉強で得られる能力」、「飛行機能力」が「学習で得られる能力」であると換言できる。グライダー能力と飛行機能力を多少でも併せ持つ場合とグライダー能力「しか」っていない場合を比較したとき、後者のグライダー能力がどれだけ卓越しているものだとしても、独力では前者のほうがより高く、遠く飛べるのは明白である。もちろん、グライダー能力も高いに越したことはない。しかしそれだけが高いばかりではにっちもさっちもいかずにAIに喰われるだろう。これは、従来の「学びへの態度」に対する問題提起である。
拡張されない「学び」・「興味」
伝統工芸を筆頭に、専門職がAIに奪われる可能性が低いのに重大な人手不足を起こすことが少なくないその一因は、学校が「グライダーを量産する工場」に近い性質を持ち合わせていることにあると考える。みんな同じような仕事にしか接する機会が無く、興味が刺激されない人も一定数いるだろうし、ほどんどの人が似通った職業に就く将来しか想像できないかもしれない。職人業を身近に感じるのは、ごく僅かの学生な気がしているがどうだろうか。
「多様性」という言葉は普及してきている。しかし、学校教育における多様性については拡大の動きがさほど目立たない。それは、自分の世界は見えている範囲が全てであると感じ、学校教育傾に疑いや物足りなさを感じない学生が多いという点にも原因がある。そこに「学び」の伸び代があると考える。
義務教育のすべてを履修するか、個々人で選択して専門的にするか
義務教育は国家を統治する上で重要である。社会を形成するために規律規範や常識を教える必要があるからだ。しかし、そのほかの教育内容の細部まで定められているが故に受動的になる子供は非常に多いと感じている。もちろんその学習態度は生徒に責任が全くないというわけではないが、もっと教育内容に選択の余地を与えるべきであると考える。
現代はインターネットを介してなんでもかんでも気軽に知ることができる。そこで、簡単に調べられるような事柄を全員に「勉強させる」ことにだけ注力するのでなく(基礎的な勉強が不要というわけでは決してない)、それぞれの子供の興味・関心がどこにあるかを自覚できるような内容にできるよう工夫するべきである。そしてそれを尊重した個人個人のカリキュラムを早い段階から学習できる体制を形作るべきだと強く思うのだ。もちろん全員とは言わないが、将来や興味について初めて考えるのが高校・大学進学に際して、である場合、開花する才能も開花しない可能性がある。その場合、自身について考えなかった学生と同じくらい、与える選択肢が少なかった教育の双方に責任がある。
言わずもがな、体制の変化だけでなく、学ぶには主体的な姿勢が必要でもある。これを物心がつく前に身につけるには難易度の高い態度かもしれないのだが、保護者や教師、行政が「興味に合致した内容を学習し始めること」並びに「学び続けること」手助けをすることが大きな助けになると考える。その内容は必ずしも学校教育的ではないかもしれない。それでも、これが真の「教育を受けさせる義務」であり、AIに負けない人材を育成するために必要になってくると私は考える。
オンライン授業を受けながら
ここまで、「学習」と「勉強」の違い、そして「学習」に向き合えるような環境構築の重要性について考察してきた。確かに、一見今すぐに子供ひとりひとりに違う内容・形式の教育を施すのは非常に難しいことに感じられる。しかし、ITやそれを整備する財務、そして教師の力の見せ所ではなかろうか。と、コロナ禍において独りオンライン授業を受けながら思うのである。多くの大学における「授業料の減額なし」ということを、「リモートでも質の落ちない授業をやり遂げてやるという意思の表れ」と私は解釈する。その解釈が大学を買いかぶっているわけではないことと、その自信の根源となるリモート学習のノウハウが子供と専門教育の間にも一刻も早くもたらされることを切に願うのである。
これは私がインプットをしてよりよいアウトプットを生成するための燃料です。あなたの活力にできるような文章を生成することに尽力します。