付け足しというより、むしろ組み替え
赤ちゃんができるということは、「夫とわたし」という夫婦に「赤ちゃん」が追加されるのだと思っていた。
例えるなら、お皿に乗ったコロッケにプチトマトを添えるような感じ。
洗濯物干しの大きなトレーナーとマキシワンピースの間に、小さな産着が吊り下げられるようなこと。
推理小説や医療書、旅行雑誌のよこに、ちんまり絵本がならぶような。
子供を育てた経験のある人ならもう分かるでしょう。
そんなわけない
実際のところ「+赤ちゃん」なんて、そんなひっそりかわいいものではない。
お皿に乗った料理が夫婦だとすれば、赤ちゃんが生まれた「家庭」は調理中のごった返したキッチン。
お湯を沸かす鍋、まな板の上には切ったニンジン、ボールの中には水切り中のレタスやトマト。
食事を始める時間をタイムリミットに、どう要領良く作業を進めるか、何はして何はしなくてもいいのか。
焦ってしまえば美味しくできないし、ゆっくりしていると焦がしてしまう。
頭の中は段取りでいっぱいで、手も足も休みなく動いている。
夫婦はたはたと揺れる洗濯物なら、赤ちゃんが生まれた「家庭」は洗濯中の洗濯物。
予防接種のスケジュール、保活のあれこれ、夫婦のクライシス。あれもこれもごった混ぜに、ぐるんぐるん。
これが「家庭」の話ならまだしも、「女性」の問題にされちゃう問題もあって、これはもう社会問題。
本棚の本だったら、もう、在庫一掃されてしまう。
取りやすいところに置いていたお気に入りの本たちは、寝室のクローゼットの中におやすみなさい。
取りやすいところには、子どもの絵本。絵本。それからおもちゃ。自由帳に用事雑誌。
別々の人生を生きてきた二人が、結婚して、新しい生活を始める。
おとぎばなしなら「二人は幸せに暮らしました。めでたしめでたし」だけれど、もちろんそうはいかない。
料理の味付け、家事のタイミング、洗濯物の畳み方、お金の管理から歯磨き粉やシャンプーの銘柄まで。
なにからなにまで、「二人の落とし所」探しが始まる。
そうして一旦整える。
なんとなく、二人がそれぞれなんとなく文句のない形に整頓して、納めて、家族になっていく。
それを一旦崩して一から組み立て直すのも、育児なんだな。
って、そんなことに気づいた育児8年目。
今更?!
とはいえ、自分でも気づかないうちに、というよりもむしろ赤ちゃんが誘導してくれてここまでやってきた。
赤ちゃんのことを考えれば片付け方が変わる、部屋の使い方が変わる、洗濯の仕方も変わる。あれもこれも変わる。
「+赤ちゃん」だと思っていた時は、自分や自分の周りを変えることができなかった。
そうすると、赤ちゃんが自分をねじ曲げようとしているように感じるし、イライラした。
それが「with赤ちゃん」になってくると、彼女に合わせることが生活のしやすさだった。
きっと、最初から「with赤ちゃん」だとわかっている人もいるんだろう。
でも、わたし、わかってなかったんだよね。
当たり前のことなのに、産後うつを乗り越えたと思ったあの時まで、わかってなかった。
だけど、今振り返ってわかることは、赤ちゃんである娘に対して恐怖を感じていたあの時も、ちゃんと大切だったということ。
こわい。でも、とても大切。
これからも、我が家は何度も洗濯機の中に放り込まれて、あれこれまとめてぐるぐるまわる。
本棚の中身は何度も出して入れかえ、調理中のキッチンのようにわたしの頭の中は段取りでいっぱい。
いつまでこんな毎日が続くのかくらくらするけれど、案外すぐ終わると聞くと寂しいのがどうも親ということらしい。