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映画「ルックバック」―ふたりの居場所から考える、「同化」(ネタバレ)

遅ればせながら、映画「ルックバック」を鑑賞した。

60分という短さを感じさせない、ギュッと色々詰まった作品だった。
原作未読かつ、映画も一度しか見ていないが、私なりに考えたことを残しておきたいと思う。
久しぶりの考察記事なので、リハビリ感が強い。ネタバレもする、誤った解釈もある、映画以外の情報はインプットしていないことをお許し願いたい。
※一部画像は、PV(© 藤本タツキ/集英社 © 2024「ルックバック」製作委員会)からの引用である


鑑賞後にまず思ったのが、主人公ふたりの関係性が、
「リズと青い鳥」に重なるな……ということだ。(未履修の方は申し訳ない)

※私の「リズと青い鳥」に対する考え方は、過去記事を参照いただきたい。

ごくごく簡単に整理するなら、藤野が希美、京本がみぞれポジションだ。
「リズ」は上質な百合作品だと思っているのだが、ルックバックもそれに近い解釈が可能だと思う。
なんなら、のぞみぞよりも、藤野京本の方が心抉られる関係性とも言える(結末が結末なので)

そんなスタンスで考察を散らかしていきたい。
注目したいのは、ふたりの居場所と「同化」である。


1.序盤―反発から、相補関係へ

序盤の展開をざっくり確認しよう。
藤野は京本の(絵の)才能を目の当たりにして挫折(と反発)→奮起・努力→相補関係になる。
本作の最も青春めいたところであり、エモい部分である。

棲み分けとしては、藤野がプロットや人物作画、京本が背景担当
この役割分担で漫画を書き上げ、読み切りを7本完成させる。

この間、作業は藤野の家で進められており、2人は別々の方を向いて作業をしている。
互いが、それぞれの領域で作業し、補完しあっていることがわかる。


ただし、そこはやはり「藤野の家」、藤野の領域なのだ。
そしてやたらと藤野が「食べている」点が気になった。

京本にとっては、自分の領域外での作業だ。どうしても、「藤野の作品が形作られる場」である感が否めない。
そして、ひとりムシャムシャする藤野は、京本の才能を食べて、それを漫画に落とし込んでいるようにすら見える。
たしかに漫画は2人で書いているのだが(かろうじて、インプットはふたりで行う)、アウトプットは「藤野を経由している」感じが強いのだ。

それが顕著になるのが、佳作入選後に、ふたりで都会に繰り出すシーンだ。
ここに至って、二人は初めて「向き合って」「横に並んで」食べ物を食べる。
やっと二人は同等になったのか?と思われるが、違うだろう。というのも、飲食代は藤野持ちなのである。
そのあらわれか、都会にいるあいだ、藤野は常に前を歩き、京本を連れまわす(性格上しかたないとはいえ…)

どうも、藤野を経由してしか、京本はインプットもアウトプットもできないような感じが強調されている。

これが後々、京本が「藤野ちゃんに頼らないで、ひとりの力で生きてみたい」に繋がるわけである。


2.中盤―いびつな「同化」との決別

ネタバレばかりで恐縮だが、ふたりが高校生のときに連載の話が舞い込むことになる。
藤野はもちろんOKだが、京本はそれを拒む。「ひとりの力で生きてみる」ために、芸大に進むというのだ。
結果的に、藤野はひとりで連載を開始。

連載を続けながら年月を重ねる藤野は、だんだん髪がのび、目の下に隈ができ、どんどん「京本化」していく。
ここはアニメならではの表現だろう。ゾワゾワした。


見た目は「京本化」できたとしても、背景を書き込むスキルというのは、手に入らない。
京本と同レベルのアシスタントを探しては、失望する日々。


序盤では京本→藤野への執着(というか依存)が強めに描かれているが、
中盤以降は、藤野→京本への執着(というか依存)が強調されていく
(こういう点も、「リズ」と似ている)


代わり」を求めて、自分が「同化」するといういびつさに、藤野の拗らせ具合がよくあらわれている。

京本は、「ルックバック」の名の通り、目指すべき姿を藤野の「背中に見ていた」。
一方の藤野はというと、京本の背中を見ていた、とはいいがたい。

「背中を見られている」という自覚の元、前へ前へと進む、推進力を得ていた、とい言い方が適切か。
京本のまなざしを失った藤野は、おそらく苦しいだろう。背中を押してくれるパワーは、もう後ろにはいないのだから。
(連載中の藤野は背中のカットが多いのだが、示唆的である)

それでもまだ、藤野は京本が戻ってくる可能性に縋っていたと思う。
それが完全に潰えるのが、終盤である。


3.終盤―「同化」、その先へ

すこしだけぼかすが、作品終盤、「物理的に」、藤野と京本はふたりで漫画を描くことはできなくなる。

藤野にとってその衝撃はすさまじく、アニメ化まで決まっていた連載を休載し、故郷に戻っている。

最も印象に残ったのは、藤野が京本の「(いわゆる)子供部屋」の内部に、足を踏み入れる場面である。

確かに序盤でも、卒業証書を届けるために、藤野は京本の部屋の前までは行っているのだが、内部に入るのは初だ。
漫画も藤野の家で書いていたのだから、京本の部屋に入るのは、初めてだと思って良いと思う。

詳細には書かないが、京本の部屋で、藤野は自分のコミックスを読む。
この行動はかなり重要だと思うのだ。

「藤野の漫画を、部屋の中で読む」という行為は、小学生のころから京本が繰り返し行ってきたことである。
見た目が「京本化」した藤野が、京本の領域(子供部屋)で、京本と同じ行動をする。

これでようやく、正しく二人は「同化」したのではないかと思う。


その後、藤野は連載を再開。
ガリガリとタブレットに原稿を書いていく藤野の背中が映し出され、スタッフロールに繋がっていく。

かなり余白を残したエンディングであるため、さまざまな解釈が可能であろう。

あくまでも個人的な解釈で恐縮だが、ラストシーンの藤野は、「京本と一緒に描いている」のだと思うのだ。
見た目の「京本化」はもちろんだが、子供部屋での行動により、藤野の内側にも、京本が宿ったように思う。

決別したままだった藤野と京本は、絵の中で…いや、漫画の中で、一緒に居られる。

クリエイターとは、そういうことが可能なのだ、というメッセージであると共に、藤野と京本という二人の関係性は、何にも侵犯されない領域に昇華されたのだな…というラストだと感じた。

60分という時間の中で、少女(~女性)のここまでの関係性を描ききる手腕、ただただすごい。すごいものを見た。



ということで、また少ない材料から、強引な考察を散らかしてしまった。
原作未読のニワカがブツブツいって申し訳ない。許してほしい。

「ルックバック」の鑑賞前に、「モノノ怪~唐傘」も見たのだが、どちらも最近の「親切なアニメ」ではなく、とてもよかった。
丁寧な説明はない、行間や余白、作画から、鑑賞者が能動的に情報を集め、意図を探り、読み取っていかなければならないアニメ作品だった。これぞアニメの醍醐味だと私は思う。
タイパ重視世代に忖度なんかせず、どんどんこういう「親切じゃないアニメ」を作って欲しいものである。

長文にお付き合いいただき、ありがとうございました!

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