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「やさしさ」ってなんだろう?

一発目はもうずっと気になっているこの話題から。

9月、わたしのめちゃくちゃ尊敬するインターン先の先輩が、その送別会で、事業部ひとりひとりに写真、その裏にメッセージと「その人と語りたい本」を添えるというなんとも粋なことをなさった。

「まおことは、ひとに寛容になることとか、やさしさとは何かというようなことについて沢山語ったので、この本にしたよ」とのこと。そうそう。じぶんが全然優しくない人間だからか、やさしさというテーマが、とっても気になっている。
そこで推薦してもらったのが『しまなみ誰そ彼』という漫画である。

ちょっとだけあらすじ

クラスメイトに「ホモ動画」を見ていることを知られた、主人公たすく。自分の性的指向が知られたのではないかと怯え自殺まで考えていた矢先、「誰かさん」という謎の人物に出会い、「談話室」へと誘われる。談話室のみんなは、さまざまな性的指向を持ち、細かく葛藤しながらもそれぞれの生をあかるく生きている。たすくは談話室をとりまく人々との出会いを通じ、自分の在りかたや他者への接しかたについて多くを学び成長していく——。さわやかな成長譚であり、ジェンダーの話題について、ソフトだがディープに切り込んだ問題提起ともいえる。

考えたこと、というか考えざるを得なかったこと

4巻一気読みしてしまったのだが、1巻目は涙が止まらなくて……。「自分を殺さずに生きていいんだ」というのは、言葉にすることも、他人にぽんと言うことも簡単だけれど、悩めるひとにとって、それを実感することがいかに困難なことであるかということ。2~4巻にはあちらこちらで断片だけ耳にしてきた、性をめぐる問題がちりばめられていて考えさせられる。
「自分をまもるために自分が一番言われて傷つく言葉を言ってしまう」ということだったり、同性カップルの片方はオープンだが、片方は違う(親や親戚にまで自分のことを完全に理解してほしいとは思わない)という状況だったり。家族との軋轢、性的指向を隠していたころの友人との再会、アウティング(勝手にカミングアウトされてしまうこと。2015年には一橋で事件がありましたね)。


物語中に、ことごとく地雷を踏んでいくキャラの女の人がいるんですけれど、それって自分は差別主義者じゃない、と思っている人でも無意識に思ってしまうことなのかも。
「そういえば君もそういう趣味の子?」「心と身体の性が違うのってそういう障害なんでしょう?同性愛みたいな趣味とはまた違うんだし」etc.
こういうことを悪びれることもなく言っちゃう。作中に出てくることばで言えば「絶対の好意」から。

なかでもあ~~と思ったのが、「大丈夫、みんな受け入れてくれるよ!」という発言。「受けいれる」って上からなんだよね。わたしが普段「多様性」ということばに感じるざらっとした感じも、この「受けいれる」とか「認める」みたいな発想が透けてみえるところにあるような気がする。それと、ちがいを表に出すことを前提としていること。ちがうってことを隠したいひとだっているじゃん。

あるいはマイノリティを「分類する」という、もーちょいマクロな観点から考えると、
勝手に分類することはおこがましいことだし問題の本質を見失うことになる一方、分類することで仲間が見つかったり、社会問題でいえば支援を受けることができる(行政などの支援する側から考えれば、枠組みを作り、支援が必然である理由を言語化することで初めて支援できるようになる)。「視点を行き来する」とかよく言うけど、こういうことを考えるときに必要なのかもしれない。

「やさしさ」ってなんなの?

こう考えてみると、やさしさって何なのか、どこにあるものなのか、よくわからなくなってくる。……と言いつつも、思うところはある。

結論から言うとやさしさを向けられた本人が嬉しくなること。それに尽きるのでは。やさしさの基準はそれを発した側にあるのではなく、受け取ったひとの気持ちに依拠するのだろう。

なぜならときに、最大限相手によくしたいという100%の善意が相手を、あるいは他のだれかを傷つけてしまうことが少なくないから。まさに漫画で描かれているように。でもそんなことを思ったら、親切にするのにも躊躇ってしまう。じゃあどうしたらいいのか?

どんなにわかりたいと願っても、理解できない世界もある。気を付けていても、視野から漏れてしまうこともある。だからいつまでたっても、どこにいっても、完全に気持ちのいい親切を繰り出し続けるのは不可能に近い。少し話はずれるが、勇気を振り絞って電車で席を譲ったら怒られた、というのも厚意が届かないという意味では身近な例だ。
が、しかし「がんばってんだけど、わからないから教えてほしい」という姿勢を示し続けることはできる。当事者として経験できることには限りがある。Aという問題の当事者の人も、Bという問題になれば途端に無知だ。

だからこそ、問題の当事者として内側からものごとを知っていること以上に、学ぼうという姿勢の方が尊いのではないか、、とわたしはおもう。自分が当事者であるようなイシューに対し、わかろうわかろうとしてもらったら、わたしはとても嬉しい。できるかぎりの言葉で、伝えたいと思うだろう。
だがそれは、繰り返しになるが、受け取る側にそれをうけとめる用意がある、言いかえれば固定観念に支配されていない場合に限って対話が成立する。

じぶんはなんにも分かっていないのだ、しかも無意識のうちに偏見を持ってしまっているのだというところから始めると、やさしさの押し売りは格段に減るんじゃないかしら。やっぱり何が差別になってしまって、何がひとを傷つけるのか考え続けないと……。でも「どうやっても何をしても傷つくときはある」(2巻)というのも、そうだよなあとおもう。だからといってやさしさを諦めたくはないなあとも。

こう考えるとやさしさって、とっても地道なものだ。
地道さを欠いた、見せつけるようなやさしさが、「偽善」とか呼ばれているものの正体なのかもしれない。


3巻の終わりの方の言葉が良い。「互いをわかり合えなくても、わかり合えないまま生きていける世の中がいい」というのは、同質性の高いこの日本で楽しく生きるためのひとつの解だよね。対話ってそういうことだとおもう。

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あべ まおこ
*不定期更新* 【最近よかったこと】東京03単独公演「ヤな覚悟」さいこうでした。オタク万歳