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【妊娠32週〜33週】子を持つ選択をした私ができること

妊娠32週に突入した、先週の私が書いた文章がこちら。↓

妊娠32週に突入し、とうとう逆流性食道炎であろう症状が出てきました。とにかく食べたものが喉まで上がってきやすくて。切迫早産で自宅安静中の私にはほんのちょっぴり不快だけど、「おほ〜胃が圧迫されてるとこんなことになるのか!はっはっ!」と、なんだかニヤニヤしてしまう私。そして寝る前には、みぞおちあたりが熱くなって身体を起こしてしまう。こんなことは人生で初めてで、この症状に対しても不快感というより「おぉ〜これが噂に聞くやつ!!」という感じで、妊婦らしい妊婦になっていることに嬉しさを感じるほど能天気。私、妊婦を楽しんでいる。

そして完全にでべそになった私の愛おしいお腹。真ん中には綺麗に正中線が入っていて、ぴょこんと出てきた私のおへそ。でべそ。これもこれであまりにも妊婦らしくて、なんだか笑ってしまう。私、妊娠してるんだ。

そしてそして愛おしい我が子。少し前までは「ボコ!!ボコン!!」という急な蹴り上げ系の胎動だったのに、最近は「ウニョ〜ン」「グニュ〜」「モニャモニャ」というような、私の子宮が子の手足で引き伸ばされる感じの胎動に。明らかに子の大きさに対して子宮の中が狭くなってきているのを感じます。膨らんだ風船の中にピッタリと子が身体を丸めて入っていて、羊水の滑りを使ってウニョウニョと身体を動かしているような、そんなイメージ。子よ、これから少なくとも1kは大きくなるのだろう?ママは、自分の子宮がどうなってしまうのかあまりにも未知すぎて想像もつかんよ。想像もつかんことをやってのける君に、ママは命の神秘さを味合わせてもらってるよ。


そして、妊娠33週を迎えた今日の私が書いた文章がこちら。↓

「私の人生、赤ちゃん産んだらどうなるんだろう。」

不意に、母に問いかけた。

「失うものもあるけど、得られる幸せも多いから大丈夫や。」

「私、赤ちゃんのことちゃんと育てられるんかな。」

「なんだかんだあんた賢いから大丈夫や。まぁ真面目すぎるとこもあるから、柔軟に対応できるかどうかやな。」

「ちゃんと愛せるんかな。」

「あんたと夫くんの子供やろ。可愛いてしゃあない思うで。」


漠然とした、そして決して心地の良くない胸のざわつきに襲われる夜。

冷静に、今このお腹にいる2kgの命、いや、生まれる頃には3kg前後になっているであろう、いや、そこそこの名医に「4kg近くまで育ちそうなレベル」と巨大時予告をされたこの我が子を、無事に産めるのだろうか。こんな狭苦しい産道を、ガチガチの股関節、骨盤を、子のために拡げてあげることはできるのだろうか。子に苦しい思いをさせないだろうか。生まれた後、子がこの世界を幸せに生きる手助けをできるだろうか。

そんな未知で壮大な不安の渦に呑まれて、眠れなかった。

ざわざわとした不快感に襲われる中、私と同じ妊娠9ヶ月、もしくは臨月で死産を経験した方の記事を目にした。妊娠は奇跡なんだと。無事に子が産まれることは、奇跡に奇跡が積み重なった結果なんだと。つくづく思い知る。人生で忘れることのできない、陣痛や出産より深い痛みを共有することで私にその奇跡を教えてくれた方に、感謝したい。

子を失いたくない。お腹の中の子をこの手で抱きたい。子に、「愛してるよ。幸せだね。」と声をかけたい。

最近は当たり前になっていた胎動に、「あ、動いた」「また動いてくれた」「安心させてくれてるんだね、ありがとう」と声をかけてしまうくらいには、また子が愛おしくなった。

忙しい。とにかく気持ちが、忙しい。


これが妊婦。これが妊婦の感情。面白い。私、なかなかにちゃんとした妊婦ではないか。面白いと書けるということは、今はポジティブモードなのかもしれない。やっぱり夜はダメだな、日が差す朝とお昼が最高だ。子にも、この日の光のエネルギーをうんと与えたい。

今日までの32年間。こんな不思議な不安を経験したことは一度もない。今までの不安といったら、「明日の発表やだな、やりたくない」「来週の定期テストの勉強全然進んでないや、単位落としたらどうしよう」「あの患者さん大丈夫かな、副作用出てたらどうしよう」。こんな、「できることならこの未来から逃げたい。でも逃げられない。」という感情・現実が付きまとう不安ばっかりだったけど。

今のこの不安は、そうじゃない。「無事に産めるかな。ちゃんと育てられるかな。」そんな不安の次には、「必ずそんな未来が来てほしい。そんな未来を迎え入れることができるよう、今できることを精一杯したい。痛いのがなんだ。怖いのがなんだ。乗り越える、乗り越えてやる。どんとこい。私の精一杯をもって、あなたを産み、育てよう。」そう、不安をいっぱいに溜め込んだ未来がどうか必ず私の元にやってきてほしいと思っている。これはすごい、これは私にとって革新だ。


多分これは私がいい人だとか優しい人だとかそういうことではなくて、何千年と続いてきた一人間、動物としての「本能」なんだと思う。「母性」なんだと思う。私、めちゃくちゃ動物じゃん。



子を産むか産まないか。それを選択する権利が女性にはある。

そう謳われて、どれくらい経っただろうか。それが現実化し始めて、どれくらい経っただろうか。長く見積もってもここ100年くらいだろうか。

そんなたったの100年が「子を産むべきかどうか」という問題定義に対して、何千年と続いてきた「子を産み世代を繋げてきた」という人間、世界の歴史を覆すことのできる答なんて到底出せないだろうと私は思う。

女性には女性として、そして人としての権利があって当然。そんな当然が認められた時代のこの世界に産まれたことを嬉しく思う。選択肢があってよかったと心底思う。子を産むという選択が正解かどうかまだわからない曖昧な世界に産まれて来れてよかったと思う。

そんな時代、世界で、私は子を産む選択をした。この選択をしてなければ、こんな感情のジェットコースターに揺さぶられる日なんて来なかった。この選択をしてなければ、この世の終わりと思えるほどと聞く陣痛・出産の痛みに乗り越えてやるという強さを持つ日なんて来なかった。

子を産む選択が正解か不正解かだなんてそんな答えはきっと、私の人生では一生出ない。産んだら産んだ幸せが、産まなければ産まなかった幸せが私の未来にはきっとあって、どっちを選択しても唯一無二の経験と思い出ができたのだと思う。


正解も不正解もない中で、子を産むという壮大な選択をした私ができることは、「幸せに生きる」ということ。どんな未来が待ち受けてようと、今を精一杯幸せに生きるということ。

子を育てながら、幸せに生きる。
子と共に、夫と共に、幸せに生きる。


ただただ、それだけのこと。


まにょ。


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