
眼鏡って…
メガネが無いのである。
今朝、遅刻しそうになったので慌てて家を飛び出した。
夜中に降り出した雨は激しさを増し、傘を差していても膝下はずぶ濡れで、立ちこめる靄のせいか10mも視界がない…。
のだ、と思っていた。
バス停に着いてふと気がついた。
メガネが無いのである。
遅刻しそうな中、傘を探すやら防水機能のある靴に履き替えるやらで、下駄箱の上に何気なしに置いたメガネを掛け忘れたのである。遠くが見えにくいのは、靄のせいではなく(もちろん、それもあるが…)、メガネを掛けていないからだと気づいた。
そもそも屋内で生活するに、大いに困るほどの近視ではないし、引き返すには時間もないので、「えい、ままよ」とばかりに、そのままバスに乗り込んだ。
混み合った車内でつり革にぶら下がる。
落ち着かないのである。
車内の熱気からくる曇りと叩きつける雨粒のせいで、窓外の風景を楽しむような状況にはないので、”見えない”ことにさほど不自由はない。また、この満員の車内で本やスマホを眺めるスペースもないので、つり革を掴む我が拳をぼんやりと眺めるしかないのだが、落ち着かないのである。
10分ほどの乗車時間で、最寄り駅に着いた。
ここからは電車に乗り換えるのだが、大雨でダイヤの遅れがあるのか、プラットホームはいつも以上にごった返している。程なく到着した電車に乗り込むが、当たり前に空席はなく、バスと同様つり革を掴んで立つ。
やはり、落ち着かないのである。
上手く表現できないが、下着のままで電車に乗っているような(と言っても、そんな経験はないが…)、ホテルでシャワーの後、バスタオルを巻いただけの姿でビールを買いに出て、オートロックのドアが閉まった時のような、(これは一度だけ経験がある)その場に居づらい、早く何処かへ隠れたい、そんな気分だ。
何とか我慢して職場についた。
慌てて”予備”のメガネを取り出して掛ける。ホッとした。上がっていた脈拍も血圧も落ち着いたようだった。
始業の準備をしながら、つらつらと考えてみる。
そもそも私にとって「メガネ」は、どうやら視力調整の道具というだけではなさそうだ。このメガネを掛けていると、社会との間に”透明な壁”ができているように思う。
子供の頃から、最近出てきた言葉で言えば「場面緘黙症」ではないかと思うほど、他人と接するのが苦手だった。
それが、高校の頃、近視が進みメガネを掛けることになった途端、多少心が楽になって、他人との関わりも以前ほどは苦手ではなくなった。メガネが社会から受ける様々な”負の刺激”から、私を守ってくれる”盾”の役割を果たしてくれたのだ。と思う。
以来、盾は持たないがメガネは手放せない。予備も常備している。
だがこの”予備のメガネ”にも不都合がある。多焦点レンズには違いないのだが、若い頃掛けていたものなので、今度は近くが見づらい。
困ったものである。