2022.12.31(「指」の歌を読む)
2022年11月22日。将棋の藤井聡太王将への挑戦権を賭け、羽生善治九段と豊島将之九段が対戦した。結果は羽生九段が勝ち、年明けからの王将戦七番勝負に臨むこととなった。
この一局について、「朝日新聞」の北野新太記者(『透明の棋士』『等身の棋士』といった好著の著者でもある)が印象的な記事を書いている。
羽生九段が対局で勝ちを確信したときに指が震える現象は、将棋ファンにはよく知られていることだ。わたしもテレビなどの対局中継で見たことがあるが、なんとも神秘的なものを感じた。
北野記者が「見る者が心を震わせる」と表現した羽生九段の「指の震え」。それを詠み込んだ短歌がある。
将棋界の神話のような羽生善治の「指の震え」が、ここではある種人間的なものとして詠まれている。この歌から数年たち、羽生さんはいま52歳になった。藤井五冠は、32歳年下である。来たる王将戦の盤上では、羽生九段の震える指が見られるかどうか、まさに心が震える。
前掲の一首が呼び水となり、「指」が出てくるいくつかの短歌が思いおこされたのでちょっと書いてみたい。
まずは斎藤茂吉の歌。
「おひろ」と題された連作のなかの一首。
雪が降る寒い夜、触れた恋人の指がかじかんでいて、「ああ冷たい」と言って寄り添ったのだったか、と、若い頃の恋愛の記憶を辿った歌。
「おひろ」のモデルは茂吉付きの女中だったという説があり、そこからわたしは、
という『万葉集』の歌を連想してしまう。
この古歌が「手」であるのに対して、茂吉の歌は「指」にクローズアップしているところが、より細やかで、冬の夜の空気の冷たさがいっそうリアルに感じとれるような気がする。
次は、はじめ与謝野晶子に師事し、その後の一時期、茂吉に教えを受けていた原阿佐緒の歌。
この阿佐緒の歌は、「泣く真似」をしたのが「私(母)」なのか「吾児」なのか、読みに迷うのだが、わたし的には「私(母)」のほうが泣き真似をしたのではないかと考えたい。
幼い子どもが駄々をこねたか何かで母親が途方に暮れ、大人げなくも顔を覆って泣き真似をしてみせた。さて、言うことを聞いてくれたかしら、とそっと指の間から子どもの様子を覗いてみると、悲しげな視線をこちらに向けている。憐れみすら含んだわが子の眼に、母親ははっと我に返る。……
「指のひま」というわずかな隙間から、母と子の一場面が立ち上がってくる歌だと思う。
「指」の歌というと、次に掲げるものなどがよく知られているのではないだろうか。
春日井建の一首は、「するどき指」が効いている。その細い指にしたたる「葡萄のみどり」があざやかで、魅了される。
斎藤史と山崎方代の歌は、どちらもなんともふしぎな作品。前衛絵画のようで、イメージはとても鮮明に思い浮かべられるが、何をうたっているのかと問われると、答えるのがむずかしい。勉強します。
最後にこの一首をあげたい。
長崎で被爆した竹山は、その体験を数多く歌っている。この歌もその一首。
原爆で亡くなった大勢の人たちを火葬する場。そのなかの一体の、それまで固く握りしめられていた手の指が、スローモーションのように開かれていく……。
初めて読んだとき、衝撃を受けた。
直接「指」ということばは出てこないが、指一本いっぽんの動きが映像として見えるようで、作者とともにわたしもそれを目撃したような気持ちになった。
以上、「指」の歌について書いてみた。
まだまだたくさんの歌があるだろう。とくに、若い世代の歌人たちの作品については恥ずかしながら不勉強なので、「これ!」というものをぜひ教えてください。