カモミールティー
一晩の間に完全に分解しきれなかったアルコールが胃袋を蹴った衝撃で僕は目を覚ました。ケトルでお湯を沸かしている間に洗面所で顔を洗い、歯を磨いておく。クタクタになった内蔵を少しだけ気遣ってカモミールティーを飲んだ。どれだけ気遣ってもプラスマイナスゼロには到底ならないが、なにもしないよりかは幾分かマシである。これも仕方のないこと。記憶にシミとなり得る汚れに気づいた昨夜は、少し多めのアルコールで浄化してやる必要があったのだ。
窓を開けてアスファルトから湧いてくる蒸気を思いきり吸い込んで、春の訪れを脳の神経を通して自身に伝える。先日上司に怒鳴られたことを思い出さないように、今日は休みだと頭の中で唱えながら顔を上げると、空にはまだ重たい雲たちが隙間なく敷き詰められていた。本棚にあった雑誌をおもむろに手に取り、隣の公園で読むために水筒にもう一度カモミールティーをいれた。A3サイズの雑誌なんて家で読んだ方が絶対快適に決まっているが、外で読む文章はいくらか情緒というものが増す。
この「休みの日を過ごす」ことが当然ではないということを僕は知っている。昨年の夏に脳に病気があった頃は時間こそいくらでもあったものの、病院の中に季節はなかったし、まるで未来も過去も関係なく時間軸が存在しないかのように、「生きる」という生命の最大の目的と喜びを享受できていなかった。
今日という休日は、過程はどうであれ僕が自分の手で掴み取ったものである。同じミスを繰り返してしまったり、上司から監視の目を向けられながらも仕事場に身を置いて耐え勝ち取ったものである。当然のように誰でも貰えるものではない。たった今自身が健康であることに感謝をして、心身を削った労働に値する褒美だと受け止めてこの休日を噛み締めなければならない。この勝利を祝うべき人物はまず自分自身なのである。
そういった咀嚼を行うことで初めて休日という日をエネルギーへと変換し、吸収できるのであろう。僕は雲間から差し込む光の中、消化を助けるようまた一口カモミールティーを飲んだ。
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