第172回芥川賞候補五作品を読んだ感想と受賞予想
芥川賞候補作品の並びを見て、今回はいつも以上に、日本文学振興会による意図的な抽出が行われたのではないかと感じた。小説を専門に書く作家ではない書き手の枠がさらに広がったことや、小説を小説たらしめるさまざまな要素の中から、とくに言葉について強いこだわりのある作品が候補に選ばれていると思ったからだ。
前々回の受賞作決定以降、生成AIが話題となり、創作全般にその影響がおよび始めたことも、その理由のひとつだろう。これからは小説もAIで作る時代がくるのでは-そんな極論は世の中にウケやすく、ひとり歩きする。実態は時として幻想の影に追いやられてしまう。世の中に向けた注意喚起のようにも思われた。
以下、読んだ順番に感想など書いてみよう。
興味がある部分だけ読んでもいいし、作品によってはネタバレしているので、未読の方はどうぞ読み飛ばしてください。目次をクリックすれば飛べます。
1.『ダンス』竹中優子
簡単なあらすじ
職場に馴染んでいないのに、ひと回りも年齢が離れている下村さんと距離を詰めることになり、彼女に翻弄されながらも付かず離れずといったつきあいが続いていく。そして四十歳になった「私」があの頃を振り返ることになる……
感想など
かまぼこ2に投げつけられた布巾には目もくれず、ピアノの演奏をする下村さん、すごいな、と思い何度も居酒屋のシーンを読み返してしまった。作品のほとんどに「私」と下村さんの日々が、地に足のついたしっかりとした筆運びで描かれる。そのおかげで、これといって重大事件が起きるわけでもないのに、ふたりの日常を面白く読んだ。
だから、一気に四十歳になっていたことには驚いた。「三十代は人を別人にする」(下村さん)「普通の人が高校生ぐらいで経験することを味わわせてもらった三十代」(「私」)偶然再会して、そんなふうに自分自身の三十代を総括するふたりを遠巻きに見ながら、しんみりとなった。
「三人まとめて往復ビンタ……」この冒頭にどきりとしたものの、全体を通しておだやかな作品だった。三十代を行き過ぎた人は、自分の三十代はどんなふうだったかとふと思うだろうし、これから三十代を迎える人は、「別人になる」なら襟を正さねば、と思うだろう。自分が何歳だったとしても、人生途上の今、ほんの一瞬立ちどまって考えるチャンスをもらえる小説になっている。
2.『DTOPIA』安堂ホセ
簡単なあらすじ
DTOPIA(デートピア)2024がフランス領ポリネシアのボラ・ボラ島で始まった。十人の男たちが賞金二十万ドルを狙ってミスユニバースを落としにかかる。その中に「おまえ」がいた。ある暴行事件が起きて犯人探しが始まり、白人たちに集中しかけていた疑惑の目が「おまえ」に向けられた。その犯罪履歴のせいで……
感想など
明らかに前二作とは異なり物語に厚みがある。世界地図や地球儀、緊張を強いられる密室などの小道具が散見され、作者ならではの世界が展開されている。
『ジャクソンひとり』から一貫して、この作者は「現場」を作ることが本当にうまい。
一方、事件が発生しても犯人は分からず仕舞いなのも前作と同じ展開なのだが、どうやら「事件として扱うのは第三者が喜ぶだけで無意味なため」という作者の(?)ポリシーゆえ、犯人捜しをしないらしいことが本作で判明する。結局優勝者が決まらないまま幕が閉じるのと合わせて、何となく消化不良な感じが残される。
DTOPIA 2024がいよいよ面白くなってきたところで、最初の「◇」部分に変わり、キースとモモの過去へさかのぼる。それはそれで興味深く読め、その過激な描写に圧倒されていくうちに私の中で上書きされ、ミスユニバースと十人の男たちへの関心が薄れてしまった。
だから、DTOPIAの舞台ボラ・ボラ島でキースとモモが再会した場面に戻っても、すでに賞金の行方(そもそも本作では決着がつかない)などどうでもよくなっていた。
自分の暴力性はアロマンティック(=他人に恋愛感情を抱かない人)に由来するとキース自らミスユニバースに打ち明けたところで、私は、またキーワードの追加だと思う。とにかくテーマが盛りだくさんなので目移りする。まるで駄々をこねた子どもが手当たりしだいに物を投げつけてくるよう……暴力。まさにこの作品自体を暴力だと感じるほどだった。
作者は映画に強い関心があり映画制作やシナリオ執筆もしていた(Wikipediaより)だけあり、巷の映画作品に触れられるが、本筋とはあまり関係のない、「昨今の映画界隈を語る作者の言葉」にしか私には読めなかった。
また、「私」「おれ」「おまえ」「モモ」など多様な人称の扱いに意図があるらしい(NiEW編集部 niewmedia.com『何事もほどほどに。小説家・安堂ホセは、人称を固めずに人の語りに合わせて変えていく』より)が、「どういう立場の誰が今語っているのか」をいちいち読み解かねばならず、正直なところ読みづらかった。
物語がどこへ進んで行くのかわからないままラストを迎えたとき、さらにひとつ大きな問題が提示される。核実験を行ったフランスは、植民地と分断するのを避けるために、特殊部隊の兵士と現地の女性とのあいだに子どもを作らせたという。任期が過ぎた兵士たちは本土へ逃げていき、「架け橋的存在」として生まれさせられた子どもたちは島に残された。この最後の部分だけでも小説ひとつ書けるのではないか。しかしながら、あまりにもショッキングな歴史は、本作とはまったく関係のないあるシーンを私に思い出させた。
(以下は『DTOPIA』とは無関係な私個人の体験)
先頃、日本被団協が2024年のノーベル平和賞を受賞した。その会見で喜びに目を潤ませる大人たちと席を並べた高校生が、緊張した面持ちでインタビューを受ける放送を目にした。あろうことか私には、彼らのことが「目的を背負わされて生まれてきた子どもたち」に見えてしまったのだった。「架け橋的存在」だ。
核廃絶を世界に訴えていくことは何よりも大切だ。原爆を落とされた広島、長崎で生きる人々、とりわけ若い人たちが声をあげることは、恒久的に核廃絶を訴えるうえで最も有効な手段のひとつだろう。でも、そもそも、およそ百三十年も前に愚かな戦争へ舵を切ったことで被ることになった、負の遺産なのだ。広島や長崎に生きる若い彼らにだけ背負わせないで、私たちひとりひとりが声をあげていかなくてはならないのではないか。戦争反対、民族浄化や虐殺反対、弱きもの幼きものへの虐待反対と!
この作品で、現代社会の問題をあまねく提起してもらった点において、作者は充分役割を果たしていると思う。
3.『字滑り』永方佑樹
簡単なあらすじ
地球環境保護のため電気が消された昼休憩時のオフィスで、モネちゃんがコンビニ弁当に箸をつけたとき、それが起きる。テレビ画面に映ったNHKのアナウンサーは字滑り(あざなすべりorじすべり)に罹っていた。渋谷周辺でひらがな声の字滑りが起きたのだ。彼女を含め三人が、字滑りの体験モニターに応募し、安達ケ原の宿泊施設に行くことになった。そこで遭遇したのは……
感想など
登場人物の名まえからして、いぶかしい。モネ、アザミ(後に、字見と判明)、骨火(ほねび)。そして渋谷で起きる字滑り現象。わぁ、もう私の大好きな世界じゃん!とテンションが上がった。
字滑りとはだいたい次のようなイメージらしい。
・「噂では字滑りに罹患中の人が摑むスマホの画面は字滑りのあいだ中、滑ってゆく先の表記一つしか、まったく画面に出てこないらしい」(文學界2024年10月号p.54終わり)
・「字滑りって電車の中で急ブレーキが突然かかった状況と似てるんじゃないかと思ったわけです」(文學界2024年10月号p.57下段)
しかし、骨火のブログがどこかおどけた感じなので、私のテンションは少し下がり、舞台が安達ケ原(実在していて、古くから文学と関わりがある土地)という山里に移ってしまってからは斜に構えはじめた。
その後、岩肌に取り込まれるように建てられた、茶室のような建物でアザミが体験する現象に、テンションが盛り返し爆上がりしたのに、ラストで三人の帰京から一年もしたら世界中の現象がぴたりと止み、字滑りについて誰も話題にしなくなってしまったと話が閉じられる。そこで私の高揚は一気に萎えた。
過ぎ去ってしまえば、この現象の発端となった阿礼事変、渋谷などで起きるひらがな声、安達ケ原で起きる字滑り、それらが机上で作者によって考えられた、非常に場当たり的なものに思われてきて、非日常的異様さだけが上滑りしている感じが否めなくなった。
阿礼事変では「漢字鹿打手内」(漢字しか打てない)現象が起きる。渋谷では、ひらがなのみに言葉が滑っていく(聴覚と視覚に異変)。安達ケ原の現象はこうだ。例えば、コンビニで「濃厚はちみつバター味」の表記から「バター」が垂れ落ち、はちみつの味が骨火の口いっぱいに想像されるのを初めとし、次にはひらがなが、そして漢字が外に飛び出す(視覚と味覚に異変)。
もちろん、それらよりさらに上をいく怪奇現象がクライマックスになって、およよと私の身が震えたのだったが、やはりこうした幻想が展開される場合、いかにリアリティを持たせるかが大切だと思う。
幻想なのにリアリティ?と思う方もいらっしゃるだろう。幻想をとことん幻想っぽく書いて逸脱し続けることは書き手のセンスでいくらでもできる。けれど、今ここで生きている我々読み手にいかに疑似体験させられるか、それこそ作者の腕の見せ所なのではないだろうか。疑似体験を可能にするには、例えば、感情にまで訴える筆が必要だろう。私の心身にはそこまで伝わってこなかった。
しかしこの作品は、我々が今生活する社会を風刺しているようでもあるから、単なる「幻想小説」としては読まない方がよさそうだ。となれば、現象よりも大切な「意味」があり、それは作品全体を通して表現されていて、非常に説得力がある。
部分的にとても魅力のある幻想的な場面が描かれているだけに、作者の思いが吐露されてしまった部分(文学界2024年10月号p.104)は残念に思いながら読んだ。アザミが語る体裁になってはいるけれど、作品の中で浮いてしまっているように感じられた。それをストレートに書かずに、物語の中に展開させてほしかった。以下の部分。(引用ではないので注意)「文字が劣化して言葉が喪われ、生成AIが台頭するものの、いずれ言葉は新たな形態をとるのではないか」……私は別の芥川賞候補作品『ゲーテはすべてを言った』にも、「感情や事件といったものが永遠に回帰する」といったようなくだりがあることを思い出した。「言葉の変遷」に触れていることもあって、これら二作品は候補に選ばれたのかも知れない。
文句を並べてきたが、私がこの作品の中で大好きな場面を最後に紹介したい。「ゆき」「はなふりはむせ」の二場面。こそばゆいけれど、その言葉の美しさに唸らされる。たとえば次のような描写。
金井美恵子や山尾悠子の世界を彷彿とさせる描写の妙、読んでいてうっとりしてしまう。アザミが怪奇現象に見舞われるシーンは圧巻だから、ぜひ読んでほしい。
4.『ゲーテはすべてを言った』鈴木結生
簡単なあらすじ
驢馬田種人(ろばたしゅじん)なるペンネームを持つ小説家、紙屋綴喜(つづき)が、義理父で大学教授の博把統一(ひろばとういち)とドイツへ取材旅行をする場面から始まる。その旅の途中、先のドイツ旅行の発端となった一連の騒動について統一が語り始めたので、綴喜はそれを小説として書くことになる……
感想など
ティーバッグのタグに書かれていた「Love does not confuse everything, but mixes. Goethe」という言葉。その出典に、ゲーテ研究の第一人者である統一がはたして辿り着くことができるのだろうかと期待しながら、読み進めた。なんとアナログな探し方か、と思ったのは、タイパやコスパといった効率最優先の現代社会に私が毒されているからか。
とにかく興味深いエピソードが次々に展開される。①統一の「サラダ的世界」と「ジャム的世界」という概念、②クリスマスの夜に統一が迷い込んだ家で聞く(実は夢なのだが)ことになる「芸術の模倣・引用・伝統性」についての議論、③同僚の大学教授、然紀典(しかりのりふみ)の捏造と盗用疑惑の真相、などなど。
他にもある。統一が師と仰ぐ、義理父の芸亭學(うんていまなぶ)が、米寿記念論文集のなかの一部に、自分の論考がかなり引用されている、と統一が発見するのも、皮肉が効いている。先生が生徒の書いたものを自分の論文に引用するって!(研究者ではない私には、よくあることなのかどうかわからない)
私が特に心惹かれたのは、夢の中で「先生」が話す「感情や事件というものが永遠に回帰する」というくだりだ。どうやらニーチェの「永劫回帰」を示しているらしいが、すぐに小説と結びつけて考えてしまう私は、言葉は先人たちから受け継ぎ、未来へ渡されていくバトンのようなものである、と勝手に飛躍して解釈した。「言葉」を「小説」と言い換えてもいいかも知れない。「小説」は、時代の潮流に常に飲み込まれて進化し続けるのではなく、少しずつ姿を変えながら、長い時間をかけて同じようなパターンを繰り返しているといったような永劫回帰をイメージした。
それはまた、今もなお続いている戦争や事件にもあてはまる。いかに残忍で凄惨なものであり、悲惨な結果しか招かないとわかっているにもかかわらず、人間は同様な行為を繰り返している。
統一の悩みの種になった冒頭の言葉「愛はすべてを混淆(こんこう)せず、渾然(こんぜん)となす」も、次のような箇所を読めば、作者が世界情勢について言及するために統一を利用したのではないかと想像できてしまうが、深読みだろうか。
どちらの世界が理想なのかは言うまでもなく、統一は「ジャムではなくサラダを!」と主張し、サラダおじさんと呼ばれたりもするのだ。
さて、前述した言葉の出典は見つかったのか?ティーバッグの会社が言葉をどこから引用したか、は判明する。灯台下暗しといったふうに。しかしそのサイトにも「出典 調査中」の文字があり、結局統一には、ゲーテが本当に言ったかどうかもわからない。それなのに、事前に収録された自身が出演するテレビ番組のエンディングで、堂々とゲーテの言葉として紹介する自分を目の前に、統一は開き直る。然紀典ばりに「本当だったからその言葉を信じた」と慢心する統一。その影には、どうにかこうにか長い道のりを経て結末に辿り着いた作者(この場合は綴喜かそれとも鈴木か?)の安堵する顔が見えるようだった。
ひとつだけ難癖をつけるならば、少々長い。原稿用紙277枚。出典を探していくだけで充分面白いストーリーになっているから、「家族」を持ち込まなくてもよかったのではないかとも思う。あるいは、家族がいるからこそ「愛」を語りやすかったという作者の都合があるのかも知れない。ペダンティックに偏り過ぎるのをおそれて、ほんわか家族話を挿入したとか……いや、そこまで申し上げるのは余計なお世話というものだろう。
鈴木結生氏は、歴史的な大家たちを、自身が創りあげた人物やその作品群と同じまな板に載せて調理する、といった芸当をやり遂げている。私の拙い言葉では、そのすごさを語るにはあまりある。その手腕はもはやマジカルだとしか言いようがない。すごさ、だけではなくて、本当はもっと語りたいことがあるのだが、ボロが出そうだからひとまずここで退散する。なにせ、ゲーテの『ファウスト』も手塚治虫の『ファウスト』(?)も水木しげるの『悪魔くん』さえ、私は読んだことも、観たこともないのだから(苦苦笑)
作者は第10回林芙美子文学賞で佳作となった『人にはどれほどの本がいるか』でデビューし、わずか23歳というのだから、何とも末恐ろしい。
5.『二十四五』乗代雄介
簡単なあらすじ
弟の結婚式に出席するため、私は仙台を訪れる。前日の顔合わせから始まるスケジュールの合間に、五年前に亡くなった叔母と訪れるはずだった場所をひとつひとつ回ろうとしていた。実は、東京から乗ってきた下りの新幹線で初めて会った女子大生に、私はお願いをしていた。弟の結婚式が終わって落ち着いた頃合いに、電話をかけてほしいというのだったが……
感想など
何がどんなふうに書かれていようとも、着いて行きます-そんな気持ちにさせる、安定感のある筆にほれぼれしながら読み進めた。本作品は過去作『十七八より』の続編かとも思われる。他の乗代作品でも阿佐美景子は語り手として登場しているらしい。それらを読んでいなかったとしても、文章の端々から大方の事情を読み取ることができるようになってはいるが、景子と叔母ゆき江の並々ならぬ絆の強さを理解するのには、本作だけでは少し情報が足りないかも知れない。しかし、ふたりの成り行きを詳しく知らなくても、喪失を体験した人ならば、亡き人に気持ちを寄せる景子の心の内を、少なくとも想像することはできるだろう。
叔母とふたりで訪れようとしていた場所に足を運ぶ計画を立てていた景子は、多くを与えてくれた叔母の喪失を受け入れざるを得ないと分かりつつも、なかなか踏ん切りがつかないようだ。愛宕神社、両家の食事会、仙台市富沢遺跡保存館、結婚式会場……そのどの時間にいても叔母への思いはあふれてくる。とはいえ、生前また死後にもわたる叔母の刷り込みは成功していて、景子は書くことで生計を立てる道をあゆみはじめていた。叔母が亡くなって、羅針盤の針を失ったような状況に陥った景子が、死者を悼み、と同時に自分自身をそこから少し解放しようとあがいている姿はとても真摯で、心を打たれる。
彼女が、弟によって暴露される過去話に少し後押しされる場面は絶妙だ。ページを割いて描かれるふたりの場面は、動きの細部にまで筆が行き届いていて、そこにない繊細な心のやりとりまで表現されている。
景子の思索には抽象的な表現や、すぐにはピンと来ない比喩もあり、一度目を通しただけでは理解できない部分がいくつかあった。
夏葵とふたりで古墳に行った場面で地の文に表される次がそのひとつだ。「嘘ばっかりのくせに本当に届いた言葉と、本当なのに届かない嘘っぱちの言葉」-胸の内に留まっているだけで、他人に対して発せられない思いを「嘘っぱち」と表しているのか。
以下に示した箇所もまた、景子がなぜこのような疑問を抱くのか、私には読み解くことができなかった。他の乗代作品にヒントがあるのかも知れないとあきらめつつ、何度も読み直した。
「真実を書きつける」の「真実」とは何を示すのか考えた……結果、ひたすら理想に向かって身魂を投げうつ小説家乗代雄介自身のすがたが重なった。景子もまた新人賞と文学賞を獲得するほどの作品を書き上げたのだから、創作を極めていくにあたりこうした自問自答を繰り返している、といったところだろうか。いや、やはり真実とは生身の叔母のことを指しているのかも知れない。叔母を小説に書けば、その時は真実だと思っても所詮虚構でしかないのだから。
叔母と訪れるはずだった震災遺構仙台市立荒浜小学校に行くのをやめた景子は、仙台に着いたばかりだった二日前と比べて、少し気持ちに変化があったようだ。新幹線でたまたま知り合った女子大生平原夏葵(なつき)が暮らす土地の、観光スポットとも言えないような雷神山古墳をふたりで訪れる。
古墳の上から向けられる夏葵の視線は、隙間なく並ぶ杉林へ、そしてその先の太平洋にまで届いている。夏葵もまた、喪失を体験しているらしいことが仄めかされる。誰かや何かを喪失した体験は、具体的にいちいち説明しなくても、気持ちだけを他の誰かと共有することはできるだろう。時に、その人物と距離がある方が助けになることもある。だから、予定通り震災遺構を訪れて、もういないゆき江から決定的な何かを受け取ってしまうより、夏葵とふたりで過ごす方を景子に選ばせた作者の舵取りを、私は好意的に受け止めた。
叔母を巡って母親との関係がぎくしゃくしているらしい景子にとって、やはり弟の結婚式に出席することはハードルが高かったのだろう。自分が何者かなど素性を明かすことなく、行きずりの夏葵とともに過ごす時間は、解放感でいっぱいだったはずだ。きっと笑顔が交わされているのだろうラストのやりとりに、私はほっとひと息ついてテキストから目を放し、顔を上げることができた。
どうしても指摘しておきたい点がある。乗代の筆はとても丁寧で細やかであること。たとえばそれは、前述した、ホテルの部屋で景子と弟が式の前夜を過ごすシーンなどにも表れている。ふたりの会話は、言葉以上のものを含みながら窓際のカウチとベッドを行き交い、過去や未来に触れていく。私にはとてもやさしく、繊細なシーンに感じられた。また、次のような取るに足らない描写の中にも、乗代の筆の妙を見つけることができる。
太字の部分に注目してほしい。前者を省いて書くことができるのにあえて書く。後者は「それ」ではなく「これ」であること。文章を真摯に書いている人ならこのニュアンスの違いを分かって頂けるのではないだろうか。
この作品の中には何か所か、メタ的な言い回しがある。「このあたりの鉤括弧は」とか「私はこの時-ではなく今この時になって」などなど他にもあると思うのだが、これらから察するに、実は『二十四五』という小説が、作中の景子の受賞作か、あるいは彼女の日記である可能性が浮上してくる。きっと『十七八より』を読めば解決するような気もするから、読んでみようと思う。
とにかく、小説家乗代雄介がまた読み手に感動を与えたであろうことに間違いはない。
6.まとめ
ひとつとして似通った作品がなく、小説というものは書く手(書き手ではなくて)の数だけあるものだなぁと感慨をおぼえた。候補作品はバラエティに富んでいて、すべて楽しく読むことができた。
候補作品の中で、大きな場面転換が行われているものが三つあった。『DTOPIA』はボラ・ボラ島から過去へ、『ダンス』は三十代から四十代へ、『字滑り』は渋谷周辺から安達ケ原へ。その中で、古くから文学と関わりがある「安達ヶ原」という土地を選んだことで、『字滑り』は作品の強度を高めることに成功している。他の二作品の場面転換はあまり効果がないように感じた。さらに、『ダンス』はこじんまりとしているが、少々熱量不足に映った。
枚数について少し考えてみよう。第169回芥川賞を受賞した『ハンチバック』は90枚であっても非常にパンチの効いた傑作であることから、分量の多い少ないで熱量を測るつもりもないし、測れるものではない。『ゲーテはすべてを言った』が277枚という長さがあり、とても分量が多い印象を受けたので、昨今の芥川賞候補作品を比べてみた。結果、とくに多いわけではないことが分かった。
たとえば第163回以降の候補作品のうち、250枚近いものはだいたい次の通り。
『彼岸花が咲く島』李琴峰(266枚)
『旅する練習』乗代雄介(245枚)
『オン・ザ・プラネット』島口大樹(264枚)
『それは誠』乗代雄介(291枚)
ちなみに今回の他の候補作品枚数は以下の通り。『二十四五』159枚、『ダンス』110枚、『字滑り』175枚、『DTOPIA』233枚
前述したが、言葉の変遷(とくに永遠に回帰するといった定義)に着目した作品が『ゲーテはすべてを言った』や『字滑り』などで、どちらかが受賞する可能性はかなり高いだろう。
筆の安定感に限れば、やはり乗代雄介が抜きん出ている。『二十四五』は、氏がこれまで書かれてきた他の多くの作品とつながりがあるから、今回受賞すれば過去作もどんどん読まれるだろう。実際に私も、さっそく『十七八より』を読もうと思う。
『ゲーテはすべてを言った』を書かれた鈴木結生が、先輩作家乗代雄介を相手に膨大な書物の話を楽しそうにしている場面を勝手に想像してしまった。おふたりともかなりの読書家らしい。
7.受賞作予想
まず、勝手に順番をつけると次の通りになった。
☆本命:『二十四五』
(受賞する可能性が最も高い)
☆対抗:『ゲーテはすべてを言った』
(受賞する可能性が本命よりも少し低いが有力視される)
☆穴:『字滑り』
(三位以内に入る可能性があり注目される)
そして受賞作は→→→→→
次の二作品になるのではないかと予想する。
乗代雄介『二十四五』
鈴木結生『ゲーテはすべてを言った』
2025年1月15日に行われる芥川賞選考会の結果が楽しみだ。
(以上、敬称略にて失礼しました)
万条由衣