難解なミステリー
娘の体重が40kgを切ってしまってから久しい。主治医からは1日1600〜1900kcal摂ってほしいと言われている。でも娘にとってはこれが本当に難しい。せめて1500。24時間のうちに500kcalを3回でいい。それすらも難しい。
食器の中身が空っぽになったら、偉いねーと褒める。食べ切れなかったら、次また頑張ろうと言う。変に励ましすぎてもプレッシャーになって食べられなくなる。だからあえて機械的にそう繰り返していた。
ある日のこと。娘が「一生懸命食べてるからもっと褒めろ!」とキレ始めた。
全部食べ切れなくても、こんなに一生懸命食べてるんだから褒めてくれたっていいじゃないか。
そういう主張だった。
言われるまま娘を褒めてもいいのかどうか、本当に悩ましかった。
100点満点の数学のテストで10点台を取ったときとは話が違う(実話)。
まずはテストを受けたことが重要だし、足りない点数はどうにかして補完できる。なにより0点じゃなかったなんてすごい!偉い!頑張ったね!
これならいくらでも言えた。
なぜなら、たとえ0点だったとしても死なないから。
食事は食べなければ生死に直結する。
娘の年齢、性別、身長、体重で計算した基礎代謝は約1200kcal。
1日に1200kcal以下しか食べられない状態で褒めてしまったら、1200kcal食べられなくてもOKだと思ってしまうのではないか。基礎代謝以下だから、そのままだと確実に体重は減っていく。
それでも褒めてしまっていいのか。
その週の診察の際、主治医からこう言われた。
「お母さん、食事を食べている娘さんを褒めてあげてください」
私が悩ましく思っている旨を伝えると、先生は
「食べた量のことは一旦切り離して考えましょう。娘さんは食べたくないのに頑張って一生懸命食べ続けています。まずは食べたというその事実だけを褒めてあげてください」
と言った。
シンプルに、食べたことのみを褒める。それが食べることへのモチベーションになる。理屈は理解できた。だから、それが娘のためになるのならという理由で、食べたという事実を褒めることにした。1日2食しか食べられなくても、食べ残しがあっても、1200kcalに達していなくても、とにかく褒める。理屈は理解できたけれど、心から納得はできなかった。それでも褒めた。
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そんなふうに褒め始めて数日が経った頃のことだった。
「ママはどうせ本気で褒めてない」
娘がそう言い出した。
敏感な娘は、私が食べたという事実だけを褒めるのに納得していないことなど、最初からお見通しだったのだ。
その後、娘の口から堰を切ったように溢れ出したのは、これまでに積もり積もった私への不満。正面からまともに浴びた衝撃で意識が遠のき、その言葉は断片的にしか覚えていない。いま改めてその断片を思い出そうとするだけでもしんどい。
「ママは昔からそうだった、数字ではっきりと成果が分かるときにしか褒めてくれなかった、テストでいい点数を取ったとか、ゲームで1位になったとか。ご飯だって全部食べ切れたときは本気で褒めてるけど、残したときは仕方なく褒めてる、私には全部分かってる」
「パパはそうじゃない。いつだって本気で褒めてくれる。お前すごいなぁって言ってくれる。たまにしか言ってくれないけど、パパの気持ちはちゃんと伝わってくる」
「母親業だって、どうせ仕方なくやってるんだ、本当はやりたくないのに、お母さんになってしまったから仕方なくやってるとしか思えない」
「別に私のことなんてどうでもいいと思ってるんだ、私のことを好きだからやってるわけじゃない、心からやりたくてやってるわけじゃないんだ」
ショックだった。
たくさん褒めて育ててきたつもりだし、惜しみなく愛情を注いできたつもりだ。
一方で、2年半に亘る闘病生活の伴走は、体力的な衰えを感じ始めた私にとって、なかなかにハードであることに違いはない。
昼夜かまわず、寝ていれば起こされ、食事を作り、食べるのを見守り、食べたことを褒め、食事後身体がだるいと言われれば全身をマッサージし、隣家から(娘にとっての)悪臭が漂ってくれば大急ぎでダイソンのスイッチを入れて匂いが一刻も早く消えるように祈り、生活に必要なものは全て買い出しに行ってやり、長時間家に独りにはしておけないから、外出は娘の体調がいいときに最長でも数時間以内。私の作った食事しか食べられないし、基本的に作り置きしたものは受け付けないから、1日たりとも休みはない。
今となってはもはや、娘を愛しているから身の回りの世話をしているのか、病人の母親として仕方なくやっているのか、私の中ではその線引きなんて、とっくに分からなくなってしまっている。
……なるほど。愛に溢れる母親は、分からなくなったりしないのか。どんなときでも、あなたは素晴らしいと褒め称え、あなたのお世話ができることが嬉しいと言って微笑むのか。だとしたら私は娘の言う通り、きっととんでもなく冷徹な母親なのだろう。
極めつけにこう言い放たれた。
「私のことが怖いんでしょ。怖くて真っ直ぐに向き合えないんでしょ」
そんなふうに思われていたのか。悔しくて、腹立たしくて、はらわたが煮えくり返って、そんなことを考えていた娘が不憫で、同時に憎たらしくて、いろいろな感情がないまぜになって爆発した。
全身を駆け巡る血が、一瞬で沸騰するような感覚。
「こんなに愛しているのに、何で伝わらないんだ!!!!!」
気づいたらそう絶叫して号泣していた。獰猛な野生動物の咆哮のようだった。
あのな、娘よ、確かに私は不器用で薄情でどうしようもない母親かもしれない。でもこれだけははっきりと言える。真っ直ぐに向き合うのが怖かったら、とっくに逃げ出してる。どれだけ時間がかかってもいい、いつかまた元気になってほしいから、笑って幸せに暮らしてほしいから、どんなに辛くても苦しくても、一緒に頑張ってきたつもりだよ。
母親なめんじゃねーよ。ざけんな。馬鹿にするのもいい加減にしろ。
思ったことそのまま全部言い返してやりたかった。でも言い返せなかった。
ただただ虚しかった。
結局どれだけ愛しても、全く伝わっていなかったんだな。
絶望とはこのことだと思った。全てが馬鹿馬鹿しい。これまで一体何のために生きてきたのか。沸騰したばかりの血が、今度は手先足先から徐々に凍りついていくような感覚。
娘を産んでからの20年が走馬灯のように思い出される。もう死んでやろうとはっきりと思った。生きている意味がない。
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その晩、帰宅した夫に事の顛末を話した。夫は極めて冷静にこう言った。
今は子ども返りしてる状態なんだろう。思うようにならなくて、反抗してみたくなっただけだよ。長いこと引きこもって、家の中で24時間ずっと一緒にいたら、そうなったっておかしくない。文句を言える相手だってママしかいないんだろう。言い方は悪いかもしれないけど、世の中にはもっとずっとエグい反抗期迎えて、それこそ警察のお世話になるような子どもだっている。それに比べたら、別に罪を犯しているわけでもないし、かわいいもんじゃないか。
なるほどはいはいわかりました、かわいいもん。懐の深いあなたはそう思えるってことね。かわいいもんだって思えない私は、器の小さい出来損ないだっていうことね。またそこに帰結するのね。
どれだけその事実を突きつけられれば事足りるのだろう。見えない槍であと何回心を貫かれれば、削られたMPを回復するのにあと何回寝て起きれば、私があとどれだけ傷ついてボロボロになれば、その分だけ娘が元気になるというのだろう。
まあもうどうでもいいや。かわいいもんだって教えてくれてありがと。よかったね、かわいいもんで。じゃあこれからは代わりにあなたが毎食後褒めてやってくれよ。あなたの褒め言葉なら信じられるとあの子も言ってたから。それであの子が食べられるようになるならこれ以上のことはないだろ。あとは頼んだよ。
私はおりる。
もう疲れた。もう充分。ここまでよく頑張ったよ私。誰も言ってくれないから、最後に自分で言って労ってやろう。偉かったね。ほんとに、本当に偉かった。
さようなら世界。おやすみなさい私。いっそこのまま目が覚めなければいい。
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「ママ、水、それと、ごはん」
深夜。いつも通りそう言われて起こされた。目が覚めないつもりだったのに。いつも通り起き上がり、コップに水を注いで渡してやり、飯を作る。いつも通り。習慣は恐ろしい。
スマホを見ながら何やら笑う娘。ご機嫌だ。見ているのはお気に入りの配信者のYouTubeか何かか。
昨日のあれは一体何だったのか。夢かうつつか幻覚か、あるいはもっと別の何かか。怖い怖い怖い。
……もしかして娘の言っていた向き合うのが怖いってこのことか。
……それともついに私が狂ってしまったのか。
その週の診療のとき、主治医にも事の顛末を話した。先生によると、それは思春期独特の揺らぎで、ときに親に猛烈に反発してみたり、かと思えば急に甘えてみたりする、極めて正常な反応だということだった。
娘はその後一度もその話題に触れることはなく、まるで何事もなかったかのように暮らしている。私の記憶の中にだけ、あのときの一連の出来事が、分類されることも整理されることもなく、そのままの状態で横たわっている。
いつものように書くことで整理しようと思った。でも書いては消し、消しては書きを繰り返すばかりで、一向に前に進まない。
そうこうしている間にひと月が過ぎてしまった。
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2月28日、デジタル先行配信されたKing Gnuの新曲「カメレオン」。
最近のお気に入りのドラマ「ミステリと言う勿れ」の主題歌で、ドラマの中で断片的に流れていた曲。この日初めてフルコーラスを聴き、歌詞を読み、全てが腑に落ちたような気がした。未分類だったあの一連の出来事に、ようやくラベルを貼ってやることができた。
『難解なミステリー』
分からないことは分からないまま置いておいていい。そう言ってもらえたように思えた。
時が経ってもう一度、この難解なミステリーを振り返るとき、古傷が痛むなと思いながら、笑えたらいい。
そんな日が一日も早く来るといい。
突き止めたい
叶わない(敵わない)
君の正体は
迷宮入りの
難解なミステリー
心変わり色変わり
軽やかに姿を変えたのは
悲しいほどの夕暮れ
僕の知らない君は誰?
King Gnu「カメレオン」
待ち侘びた春はもうすぐそこ。体重は今日もじりじり減り続けている。頼む。あと一口でいい、ご飯を食べてくれ、もう100gでいい、体重を増やしてくれ。
※タイトルはKing Gnu「カメレオン」の歌詞よりお借りしています