あなたに首ったけ顛末記<その11・アテ馬は意外と馬に蹴られない>【小説】
あなたに首ったけ顛末記<その11>
◇◇ アテ馬は意外と馬に蹴られない ◇◇
(18000字)
<1>御崎十緒子(状態異常:色ボケ)
(5000字)
『……んん、私ねぇ。うっかり、切られちゃったの。ああもう、しまったな……あいつに、してやられるなんて』
『切ら、れた? ……あいつ?』
『怪異。お化け、って言えば、伝わる?』
姉の御崎華緒子、華緒ちゃんとの、そんな物騒な通話を終えてから。
私、御崎十緒子は即、チーフに電話をかけることにした。
「明日、なんですけど。朝イチで、ケガをした姉のお見舞いに行きたくて。すみません、一時間遅刻でお願いしたいのですが……」
ちょうど21時を過ぎる頃で、「こんな時間にすみません」と謝りつつ用件を伝える。
するとチーフから、『ああ、早めに連絡もらえるほうが僕はありがたいから、全然いいよ。遅刻ね、オケオケ』なんて、軽ーく返され、さらに、
『……あ、待って待って。そういや有給残ってたよね、消化しとこっか? よし、じゃあ御崎さん、明日はお休み、またあさってね』
と、続いて。
明日の私は、サクッとお休みになってしまった。
いいのかな、でも。
これで華緒ちゃんのところに気兼ねなく行けるし、ま、いっか。
……さっきの、華緒ちゃんとの電話で、切る間際に。
『んん、しまったな、そんなに心配させるとは思わなくて……明日連絡すればよかった、ごめんね? でもかすり傷だし、本人ピンピンしてんのよ? 本当に、仕事終わってからでいいから。じゃ、もう寝るから、また明日ね』
なんて華緒ちゃんは、いつものおっとりとした声で、私に言ったのだけど。
そんなの……ほんとかな、って思ってしまったし、この目で確認するまで、安心できない。
だって華緒ちゃん、切られた、って……しかも、お化け、に?
ぞぞぞ、とまた鳥肌が立つ。
《明日、仕事がお休みになりました。午前中にそちらに行きます》と華緒ちゃん宛てのメッセージを打ち込んでいると、視界の端が光り、小さなヘビがそこに浮かんでいた。
白い色のヘビ、しーちゃんが、私の顔のすぐ横にいる。
聞こえてくる、音のない声。
(十緒子様、ご安心ください。確かにかすり傷だ、と金のが申しております)
「え、しーちゃん、いまハナちゃんとお話してるの?」
(はい)
華緒ちゃんの相棒、金色のヘビの、ハナちゃん。あの金ピカの小さな体が、脳裏に浮かぶ。
ウチにいながら、ホテルに泊まってる華緒ちゃんと一緒のハナちゃんと話せるなんて、そっか、そんなことできるんだ、便利。
(間抜けにも主人を守れなかった金のに、なにか叱責や憐憫のおことばなどございましたら、ワタクシ伝えておきますが)
「え、なんで、そんなのないよ。あ、ハナちゃんはもちろん、だいじょぶなんだよね?」
(残念ながら消滅もせず、図太く存在しております)
しーちゃん、なんか怖い。
でも、しーちゃん経由でも状況がわかって、ホッとする。ほんとに華緒ちゃんの言う通りで、私は心配しすぎだったのかもしれない。
それでもいろいろ気になるし、休みにもなったし、メッセージはこのまま送信することにした。
寝よう、と掛け布団に足を入れたところで私は、ふう、と息をつき、ベッドに接する壁にもたれかかる。ヘビのみんなが、私を取り囲むようにしてそこにいた。
「にしても、お化け、って……なんで、そんなことに?」
(華緒子のお仕事よね)
灰色ヘビ、はーちゃんが、そう言っておっとりと首を傾ける。紫ヘビ、むーちゃんが黙ったままうなずき、青ヘビあおちゃんは仰向けになって、ふよふよと宙を泳ぎながら言う。
(オレらと一緒にいるヤツはー、鬼退治とか好きだよなー)
「鬼、退治?」
(まーねー、昔の話ー)
(ボクは、あんまり行かなかったかも)
ポソリ、と赤いヘビ、べにちゃんが布団の中から頭だけ出して、つぶやく。
と、茶色のちゃーちゃんが、ヘビの体で器用にリズムを取りながら、歌い出した。
(もーもたろさん、ももたろさん♪ そろそろ気付いてあげちゃってぇ♪)
歌とともにみんなが向ける視線の先には、掛け布団の上で、伸びたままピクッ、ピクッ、とピンクに光る体を痙攣させている、桃色ヘビ、もーちゃんが……。
「わああっ、もーちゃんっ?!」
(十緒子ちゃあん……すっごく、目が回ったよ。元気してたんだねっ……)
小さなヘビの体を両手で掬いあげると、もーちゃんは少しだけ頭を上げた。
(もーちゃんはねえ、十緒子ちゃんに会えて、うれしかったよ……)
「っ! もーちゃんっ、もーちゃんってば!」
ガク、と頭を落とし動かなくなるもーちゃんにあわてて、両手を上下に振る。
(うくく、ひっかかった? って、ふがっ、十緒子ちゃんんんっ、ストップストップう)
「あれ、だいじょぶなの?」
(オレらが死ぬわけないだろー、生きてないんだからー)
(あらあら、身も蓋もないわね)
あおちゃんとはーちゃんが言い、私が振るのをストップした手の平の上で起き上がったもーちゃんが、あたりを見回す。
(もーちゃんは、何番目?)
(7番だねー。オレはー、2番ー)
(……2番は、僕だな)
(紫の、細かいこと言うなよー、同着2番じゃんかー)
(そっかそっか、どっちでもいいよっ。んじゃ、緑のと黄色の、あと橙のがまだなんだね)
もーちゃんが言い、それから私のほうに向き直った。
(十緒子ちゃんっ、さっきは目ぇ回しちゃったけど、すごかったね! いい番いが見つかったのかなっ?)
「え」
(ラブ、だねっ。なにがあったのか、もーちゃんにも教えてよっ)
もーちゃんが話すのを聞きながら、『番い』『ラブ』ということばを拾い上げてしまった私の顔が、またしてもカッと熱を持つ。耐えきれずそのままベッドに倒れ込み、掛け布団をかぶった。
そう、あれはまだ、今日の話。
私と水野さん、水野春臣は、えっと、その……。
『……あーもういいや、時間切れ、もう待てねぇし』
耳の奥あたりで思い出す、あのときの水野さんの声……ちょまっ、またそこから脳内再生スタートとかっ、うううううっ、叫びたい、叫んでもいいでしょうかっ!
いや、ダメだよね、安アパートでそんなことしちゃ。
また心臓がバクバクし出し、色ボケモードになってるなんて。
ああもう、私って薄情者、華緒ちゃんのこと、心配じゃないの?
でもでも、水野さんの破壊力がすごすぎて……。
(まぁーたーして、もぉー。めーがーまーわーるぅー)
「……あ。そうだ、朝の電車。水野さんに連絡しないとだ」
布団の外から聞こえるもーちゃんの声を耳にしながら、思い出した。
朝、いつもの時間の電車に乗れないときは、要連絡。もぞもぞと掛け布団から顔を出してスマホを取り、入力しようとしたんだけど。
あれえ。私いままで、どんな感じでメッセージつくってたんだろ?
送信履歴を見ても、ピンとこない。このときはそっけないし、こっちはなれなれしい気がするし。や、普通にいつも通り、話すときみたいに打てば、って……あれ? 私、どうやってしゃべってたんだろ?
好きなヒト、相手に……。
カッ。効果音付きで顔の熱くなった私はきっと、赤鬼かよ、ってくらい赤くなってる。
と、もーちゃんが枕元に、ボトッ、と落ちてきた。
(うふうっ、十緒子ちゃん、またっ、いきなりのビッグウェーブぅ……、もーちゃん不覚! 今度こそ、乗りこなしてみせる! じゃあ十緒子ちゃん、いってきます!)
「いってらっしゃい……?」
よくわからないまま返事をしているうちに、もーちゃんの姿が消えた。
それから、自動再生される再現VTRを振り払いながら、どうにか水野さんへメッセージを送り、照明を消し布団をかぶって、ぎゅうっと目をつむったのだけど。
それで再生が停止されるはずもなく、動悸と甘痛さの止まない胸を両手で押さえ、または恥ずかしさで熱くなる顔を両手で覆いながら、足をジタバタさせ……。
もう、なんで……色ボケてる場合じゃ、ないのに。
それでも、というか、それに疲れ果てて、だったのか。
私はいつの間にか、眠ってしまったようで。
(あらあら。十緒子はそれだけ、うれしかったのね)
その眠りの中で、はーちゃんの声が聞こえた気がした。
◇◇◇
翌日、華緒ちゃんの泊まるホテルの部屋で華緒ちゃんを見た私は、やっぱり心配が足りなかった、とひどい罪悪感に襲われた。
「華緒ちゃん、包帯って! かすり傷じゃないじゃん!」
「かすり傷なのに海藤がこうやって大げさにしちゃって、で、驚かせちゃいけないって思ったから事前に言ったのよ? んん、もう……どこから間違えたかな」
華緒ちゃんが左前腕に巻かれた、くっつくタイプの包帯をほどきガーゼを除くと、手首から肘に向かってすっと斜めに一本走る赤い筋のような傷があった。
塗り薬の残るその傷は確かに、思っていたよりは浅かった、けど。
「もうほとんど痛くないし。まあ、服が汚れちゃうから、これはしばらく巻くと思うけど。ね、安心した?」
「うん……ほんとにもう、だいじょぶなんだよね?」
言いながら、傷の筋がまぶたに残り、ぞぞ、と背筋が寒くなる。
華緒ちゃんは見るからに安心してない私を見て、ふう、と小さく息をついた。
「余計な心配なんか、いらないから。もう、十緒子がケガしたわけじゃないんだから、ね」
包帯を巻きなおして腕をブラウスにしまいながら華緒ちゃんは、「んん、お願いの件はあとでにしよっかな」とつぶやく。それから「あ、そうだ、そうだった」と思い出したように言って、うふふ、と笑った。
「ねえ、せっかく休みになったんだし、たくさん話が出来るじゃない? で、さっそくなんだけど~、気になってたんだ、あれから、なにか進展があったりした?」
「進展、って」
「水野くん、と!」
水野くん、と。
私の色ボケセンサーがその単語に反応して、私の顔から、カッ、という効果音が聞こえる。
赤鬼、見参。
「顔、真っ赤~! あれれやっぱり、なにかあったかな~? ねね、それで、なに、なにがあったの?」
なにが、って、そんなコト、訊かれると。
また勝手に再生はじまっちゃうからっ、お願い待って、色ボケセンサー!
……あ、それよりも。
華緒ちゃんにきちんと、訊かなきゃいけないことがあるじゃん、色ボケてる場合じゃない。
だけど頭も口も、うまく回んない……。
「華緒ちゃん、け、け、けっこ、ん……」
「んん?」
「華緒ちゃんの! け、結婚、華緒ちゃんと水野さんとの、結婚の件だけど!」
思い切って叫んだところで、部屋のドアが閉まる音がしてそちらを見ると、海藤さんが立っていた。ジャケットを脱いで小脇に抱え、ネクタイをわずかに緩めたシャツ、ちょっとくたびれてるっぽいスラックス。
この前会ったときのキリッとした印象がなくて、絶対この人疲れてる、と私でもわかる。
海藤さんが足早に、窓際のソファに座る私たちに近寄ってきたところで、華緒ちゃんが立ち上がり、海藤さんは足を止めた。
「結婚の件? 華緒子と誰との、」
「はーいストップ、海藤には関係ないことでーす。十緒子、この続きはブランチ食べながらにしよっか! 海藤、私たち出るから。今度こそちゃんとベッドで寝なさい、絶対よ。戻る前、そうね、お昼過ぎにスマホにコールしてあげる。あ、”起こさないで”にするの、忘れないようにしなさい、じゃね」
言いながら華緒ちゃんは、私の腕を取ってソファから立たせ、私を引っ張ってゆく。すれ違いざまに見た海藤さんの、黙ったまま華緒ちゃんの姿を追うその目も、ひどく疲れていて。
きっと華緒ちゃんのことを、相当心配していたからなんだろう、という想像は、たぶん合ってる。休んでほしい、と華緒ちゃんじゃなくても思う。
部屋を出て扉が閉まったところで、華緒ちゃんは、ふう、と短く息を吐いた。
「……どうせ、私が言ったって、聞いてくれないんだから」
華緒ちゃんが小さくつぶやくと、金色ヘビ、ハナちゃんが、華緒ちゃんの髪の中から顔を出した。
(わらわが眠らせると言うておる)
「だーめ、それは最終手段。まあ言いたいことは言ってやったから、いい。……さて、と! なに食べよっか、十緒子?」
華緒ちゃんがそう言って、私に向けた笑顔は。
なんでだか、どこかさみしそうに見えた。
<2>水野春臣(状態異常:色ボケ)
(3000字)
『行っちゃやだ。いなくなっちゃ、やだ。華緒ちゃんのところに、ほかのヒトのところに行かないで……はる、おみ』
仕事中だろうがなんだろうが、容赦なく何度も繰り返される回想で、彼女が言う。
そのほとんど反則的な声を聞きながら、俺はふと気付いた。
……そういやぁ。
あいつ、十緒子のワガママって、聞いたことねぇな。
食い物に対して欲を見せる姿は、知っている。
だがあいつは基本、自分からこうしたいだの、ああしたいだのを、言わない。
俺の首が鑑賞したいから俺と会いたい、とか、会う頻度を上げてくれ、とか。
そういうことも、あいつから口にしたことはない。
強いて言えば。
首フェチが高ずるあまり、俺の首に触れようとして生き霊になった……そのことがあいつの、最大のワガママなのでは?
昨日のアレも。生き霊状態で追いかけられて、言われたわけだし。
もしかしてあいつは、生き霊にならないと本音が言えないのか?
「……かわ、ゴホッ」
デスクで見積もりなどの書類作成や関係各所へのメールを片付けている俺は、うっかり独り言を漏らしそうになりそれをごまかした。
そうでなくても口元がゆるみそうになるのを、意識して抑えているというのに。マスクしてて、よかった。
にしても。
かわいい、じゃねぇか。
………………。
は? 生き霊になんのが、かわいい、だと?
マジかよ、俺……クソッ、なんだこれ。
あれからあいつに会ってないのに、あいつのことばかりを考え続けている、このアホな状態。
……俺はどうやら、色ボケている。
昨晩の俺は、もっとアホだった。
キスしたときの、あいつの触感、匂い、息づかいを。
細部まで生々しく思い出すのを、何度も繰り返して。
挙句、里香さんのヘアサロンで同じ香りを嗅いだら俺、たぶんヤバいんじゃねぇの? という、いらぬ心配まで浮かんでくる。
早いとこ別の、っつうか、いつもの匂いでキスして、上書きしたい。
そんな意味不明の欲求まで出てきて、それはもう浮かれているなんてもんじゃなかった。
……十緒子から送られてきたメッセージを、読むまでは。
《明日、会社がお休みになりましたのでご連絡いたします。
夜分に申し訳ございません。》
っんだよ、これ。業務連絡かよ。
それより、また俺を避けてんのか……いや、おそらくそれはない。月曜日の件に傷ついた、つったら謝られたし。まん丸な黒目を、ちょっと潤ませて……あれはでも、反省というよりキスの余韻でウルウルと……あれはクるもんがあった……まあでも、悪かったと思ってる顔だった。
なら、どういうことだ? 本当に休みで、でもなんで急に休みなんだよ? 普通その辺も説明するよな?
もしかして。
あいつもいまごろ、色ボケで。その辺、吹っ飛んだのか?
……ありうる。
これまで、過剰なボディタッチの数々であいつを動揺させてきた経験からも、そう確信が持てるし、なにより。
さっき、他ならぬ俺が、それだけのコトをしてきたし。
これまであんな動揺を見せてきた十緒子がいま、俺より冷静なわけがない。
「っ、……かわ、グフッ」
会社のデスクで、昨晩の回想を回想しながら、俺はまた独り言をごまかした。キーボードから手を離し、眉間を揉むようにして肘をつく。
ハアッ、と息を吐いたところで、目の前、キーボードの上に、個包装の飴がひとつ落ちてきた。
顔を上げると、岡田主任が別の飴を持った手をアゴのあたりに添え、こちらを見下ろしていた。冷ややかな視線、と感じるのは、気のせいではなさそうだ。
「体調でも悪いのかしら。共有した報告書、どこも直されてないわね」
「いえ、まだ直しても……遅くなってすみません、これからすぐ直して上げます」
「体調は?」
「いえ、なんともないです」
「そう、わかったわ。それ、のど飴。よかったら、どうぞ」
「ありがとう、ございます」
「なにか口に入れれば、色ボケた独り言が減ると思うわ」
「……は」
立ち去る主任の背中を見送りながら、俺は絶句した。
聞こえてた、のか?
いやあれはいつもの、十緒子がらみの嫌味だ、たぶん。
主任には、俺が普段猫被ってることがバレて、それから主任の俺への風当たりが強くなった。
俺が知らないことになってるとはいえ。
俺へのストーカー未遂してたんじゃ、なかったのか? ▼
いや、そっちのベクトルのほうが百倍ウザいけども、それにしても極端すぎんだろ。
まぁでも、その理由が。
俺にはわかりすぎるほど、わかっている。
岡田冬芽の中で、俺は他でもない、十緒子に負けたのだ。
ため息をつき、また眉間のシワに手をやる。それから、目に入ってきた飴をつまみ上げ包装を切り中身を口に放り込んで、報告書のファイルを立ち上げた。
◇◇◇
昼休み。十緒子が休みだというのにうっかりいつもの社食に来てしまった俺は、いつもの席に岡田主任の後ろ姿を確認し、入口で足を止める。
以前から主任は、俺がこの社食に来れないときに十緒子とメシを食っているそうで、それは十緒子から聞いていた。だが最近、俺がここに来れるとわかっている日にも、主任が先に座っていることがあって、そんな日は俺が遠慮するしかなかった。
三人で仲良く昼メシ、というのは。
過去の諸事情を思い出して、俺にはハードルが高い。
おそらく主任もそう思っていて、俺が十緒子といる日に姿を見せたことはない。
だが、先に座ってしまえば俺が遠慮する、と。
主任は、それをわかってやっている、ということだ。
無言の、十緒子争奪戦。
なんだって、こんなことになってんだ。
今日は十緒子が休みだと、教えてやるか?
いや、藪蛇だな。
と、主任に話しかける男がいて、そいつがすっと、主任の隣に座る。
あれは確か、十緒子の会社の人間だ。
なら、休みの件は伝わるはず……ああでも、十緒子が休みだから俺の様子がヘンだとか、あとでまた遠回しに嫌味を言われそうだな。チッ。
社食を後にしてビルの地階へ行き、サンドイッチ屋でテイクアウトし、デスクに戻った。包み紙を剥いてレギュラーサイズを一気に食い終わり、フロアにあるドリンクサーバーからコーヒーを淹れてまた座る。
スマホをチェックしはじめたところで、番号に覚えのないショートメッセージを見つけてそれを読んだ俺は、椅子を倒して立ち上がった。
《明らかになにかあったようなのに、何事もなかったって十緒子が言ってるけど、本当なの? 私があれだけお膳立てしてあげたのに、水野くんって、ヘタレ? 仕事が終わったら十緒子に会わせてあげるから、連絡ください。御崎華緒子より》
「っ、何事もなかった、だと?」
思わず、声に出してつぶやく。
何事もなくは……なかった。
夢だった、とかいうオチでもない。
なら、なんで。
あいつにとっては、些末な出来事だった、と?
俺がこれだけ、アホみたいな色ボケ状態だってのに?
っだよ、そりゃあ!
俺に『行っちゃやだ』とか、と言っておいて!
キスしたらそれに、天然のエロさで答えていたくせに?
付き合いはじめた途端に、意味わかんねぇ!
………………ん?
ちょっと待て、しまった、まさか。
そういうこと……なの、か?
俺は倒した椅子を起こして座り直す。昼休みの時間はまだ残っていたが、そのままパソコンを起動して仕事を再開した。
とにかく定時にあがって、十緒子に会わなくては。
<3>御崎十緒子は言うことにした
(5700字)
会社をお休みにしてもらった手前、会社のビル周辺にいるのはなんとも気まずい、と華緒ちゃんに話すと、華緒ちゃんは私を連れて、少し離れてるけど近くの、大きな公園と観光タワーのあるエリアにタクシーで移動してくれた。
お約束のようにタワーの展望台に登り、「うふふ。ちょっと低めだけど、人が……」を聞こえないようにやり過ごし、タワーを下りてから、そこで見つけたお店に入り、ボリュームのあるオムレツ、デザートで生クリームのこんもり載ったワッフルをごちそうしてもらった。
「で、それで? 水野くんと、なにがあったの?」
そう訊かれたのはお店で注文を終えたあとで、向かい合って座る私は、またも『水野』に反応してしまう。動悸、熱を持つ顔、輪郭がなくなりそうになる、ぽわぽわした体。
いかん、落ち着け。そろそろ慣れようよ、私。
よくわかんないけど体の中で、もーちゃんも頑張ってくれてることだし。
「もしかして……『俺が好きなのは十緒子だ』、とか『愛してる』、なーんて言われて? ぎゅう、ってされちゃった? それとも、チュウとかブチュウとか~?」
チュウとか、ブチュウ。
ボンッ、と自分の中からなにかの爆発音がしたあと、目がチカチカして……でも、あれ? と、ふと冷静になる。
好きとか、言われて……あれ?
すん、と真顔になったのが、自分でもわかった。
「……ううん、言われて、ない」
「そっか、そっかー! ……って、ええ? その状態で? だって十緒子、お花が咲いちゃったみたいなのに? 言われてない? なにもなかったってこと?」
「なにも……なかった、何事も」
そうだ。
いつも通り、生き霊になった私を、水野さんに戻してもらっただけで。
『行っちゃやだ』とは、言ったけど、それだけ。
あれ……?
「ええええええ、ウソでしょー? あ、でも、チュウくらいはあった、そゆこと?」
「っ、っっっっっっ」
声にならない声を上げつつ、また赤鬼になった顔を両手で覆う。
と、ポンッ、と音がして、ピンク色の小さなヘビの体がテーブルの上に投げ出された。
(おや、桃の。久しいの)
ハナちゃんが、華緒ちゃんの肩の上、髪の毛をくぐるようにして顔を出した。
もーちゃんはまたそのピンクの体を、ピクッ、ピクッと痙攣させている。
(また負けちゃったよ、十緒子ちゃあん……もーちゃん、ちょっと休憩するねっ。でもすごいよ、おかげで、もーちゃんたちみんな、元気モリモリだもんっ。十緒子ちゃんも、そんなにおなか、すかないでしょ?)
今日、ヘビのみんなは全員で、私と一緒についてきている。
もーちゃんが体の中、あおちゃんが目で、もやもや避けになって。しーちゃん、むーちゃん、はーちゃん、べにちゃん、ちゃーちゃんたちは、ほとんどは姿を見せない状態で、たまに交代で私のバッグのチャームになったりしていた。
「おなか……そういえば、そうかも」
「んん、桃色のヘビ様、いつの間に?」
「昨日、苦しくなって、呼んじゃって……」
思い出して、一瞬上げていた顔をまた両手で隠した。
でも。
冷静さもまた、戻ってきて。
確かにチュウ、は。
された、けど。
2回、じゃないかあれ、カウント方法がよくわからない……。
っ、それは置いといて!
チュウするっていうのは、ソウイウコト、ですか?
それとも、どういうこと?
二次元の英才教育を受けて、これまで数々の恋愛モノを読書・鑑賞というカタチでこの身に取り込んできた私なのに、現実に、自分の身に起こったことがよくわからない。
……でも。
「やっぱり……なにも、言われてない。ってことは、何事もなかった、ってこと、かも?」
「ええええええええ、なにそれ、水野くんなにやらかして……なんでやらかさないの!」
そして運ばれてきたオムレツのお皿を避けるように、もーちゃんがあわてて転がって、私の腿の上に落ち。
私と華緒ちゃんは、気を取り直して食事をはじめた。
◇◇◇
「っていうか、華緒ちゃんとさっきみたいに話すの、ほんとは変だよね?」
食事が終わって、タワーの前に広がる、海に面した細長く大きな公園で。
腹ごなしにふたりでゆっくりと歩きながら、私はいまさらなことに、やっと気付いた。
なんだって、水野さんにプロポーズしてた華緒ちゃんが私に、彼となにか進展があったか、なんてことを訊いてくるのか。
「変?」
「だって、華緒ちゃんは! 水野さんと、結婚って、」
「そしたら、どうする?」
華緒ちゃんが言い、ふたりとも歩みを止める。観光客のまばらな、海側ではないほうの歩道の端で華緒ちゃんは、私の顔をわざと下から覗きこんだ。
「もう一回訊くけど、いいの? べつに、かまわない?」
微笑む華緒ちゃんの表情が、さっきのワッフルに載っていた生クリームみたく、溶けるように甘い。目をそらし、こんな美人に言い寄られたら彼は、と余計なことを考えはじめ、それから思った。
何事もなかった、かもしれないけど。
私はあのとき、私の気持ちに気付いてしまった。
誰にも、あげたくない。
そう思ってしまったときの、あの胸の痛みがまた、存在を主張してくる。
(華緒子ー、なんでだよー。んなことすると、馬に蹴られるんだぞー)
と、ポンッと音がして、ふたりの間に青い光が割り込んでくる。
あおちゃんが華緒ちゃんに向かって、体をふるふると揺らした。
「青。他のヘビ様もだけど、あなたも少し暴走してる。十緒子に対して過保護すぎるの、自覚しなさい。青の役割はわかる、でもこれは十緒子自身が自分で決めて、口にしないといけないの。ヘビ様たちは、本当には十緒子の代わりにはなれないんだから。そうでしょ、十緒子?」
華緒ちゃんに言われて、あおちゃんはそのまま黙って私の後ろに下がった。
ふと、前にあおちゃんが、(オレの担当はー、ほんとは目じゃないんだぞー)と言っていたのを思い出す。
暴走。あおちゃんの役割。華緒ちゃんの言うそれらのことばが、その意味が。
華緒ちゃんの声に乗って、いまの、実体の私でもわかるように、私に入ってきた。それは、私の中の私が知ってること、だ、たぶん。
でもあおちゃんは、私の代わりに頑張ってくれようとしただけ。
私がずっと、自分をごまかして、口を閉ざしたままだったから……。
(じゃあ十緒子ぉー、オレ応援する、頑張れー)
と、あおちゃんが私の目の前にポンッと移動してきた。それから私の首に潜り込むようにして、消える。
なんの感覚もないのだけど、私はあおちゃんが入っていった自分の喉を、片手で押さえた。
息をゆっくりと吸い、ゆっくりと吐いて、それから口を開く。
「……私。華緒ちゃんに、嘘ついちゃった」
私はなんとかそう絞り出して、そのまま続けた。
「『違うんです』は嘘だって、わかっちゃった」
「……ふうん、それで? どうしよっか、どうしてほしい?」
「え?」
知らずうつむき気味だった顔を上げ華緒ちゃんを見ると、華緒ちゃんの手が伸びてきて、私の髪を撫でた。
「昔っから十緒子は、遠慮ばっかして。せっかくヘビ様と記憶が戻ったんだから、小さい頃みたく、天真爛漫に……そう、もっとワガママになっても、いいんだよ。
言って、十緒子。お姉ちゃんにわかるように、はっきりと」
そして。
私は、私より背の高い華緒ちゃんの両手に、上からふんわりと抱きしめられる。
華緒ちゃんが、耳元で言った。
「ね。私に、どうしてほしい?」
そうやって抱きしめられただけで、私の中にあふれ出てきたもの。
あおちゃんの存在。
それらに背中を押されるように、私は口を開く。
「っ、あのね、……取っちゃ、やだ」
「おお、ストレート」
「ごめん、でも。出来るなら、取らないで、ほしい、……っ」
「んんんんっ、十緒子、かわいいっ」
華緒ちゃんのハグに力が入る。私は顔を真っ赤に火照らせながら、彼女の、どこかピリッとした印象の香水に包まれ。
なんでだか、じわりと涙が出そうになったので、それをこらえた。
私、ひとりじゃなかったんだ、たぶん。
華緒子お姉ちゃん、華緒ちゃんは、ずっとそこにいて。
なのに私は、この家の中でひとりぼっちなんだ、と思い込んでいた。
みんな、お姉ちゃんもおばあさまも、お母さん、も。
私のことを遠巻きにしている、と思っていた。
でもそれは、封印のせいで……。
「また私……ゆっちゃった、いいのかな」
「なにそれ『ゆっちゃった』って。言ってよ、言ってくれなきゃ、わかんないよ」
「そう……だね。いいんだ、うん、そっか」
気持ちを伝えること、を。
頑張ってみても、いいんだ。
そうだ、私。私も。
私こそ水野さんに、なにも言えてない。
子供みたいに『行っちゃやだ』って言っただけで……。
ポンッ、と音がして、あおちゃんが飛び出てきた。
(そんで華緒子ー、どーすんだよぉー)
「急かすわね、青。そういやさっきの、馬に蹴られる? それは違うわよ」
華緒ちゃんがニヤリ、と、ちょっと見たことのない笑い方を見せた。
「私は十緒子のアテ馬なんだもん。アテ馬はむしろ蹴られないもん、だって協力してるじゃない?」
「……私の、アテ馬?」
「うふふ、チョロいわね、十緒子。プロポーズなんて、嘘に決まってるじゃん、そう、これがお姉ちゃんの愛、わかるかな~」
(アテ馬ー、そんなんもあんのかー)
感心するあおちゃんの声を聞きながら、チョロいなんてことばを口にした華緒ちゃんを呆然と見つめ、言われたことを脳内で繰り返してみる。
私の、アテ馬。
プロポーズは、嘘。
アテ馬、って。いわゆるライバル、恋愛モノの小説やマンガになくてはならない、ふたりの恋を妨害して逆に盛り上げちゃう登場人物、ってこと、ですよね?
それって、つまり。
「だあって、見るからに好きっ、ハートっ、て感じなのに、カレシじゃないって言うから。久しぶりにかわいい十緒子に会えたし、よし、ひと肌脱ごう、って思うじゃない、ね?」
見るからに好き、って。そんなだったっけ、私?
でもそれよりも私は、ホッとして肩のあたりから力が抜けていく自分を感じていた。
そして、それと正反対のような、もやっとした、胸の奥がつっかえるような感覚。
もやもや、からの、ムカムカ。
あんなに悩んだのに、嘘だったとか、もう……。
「華緒ちゃん、ひどいよ……」
私はその場にへなへなとしゃがみこんで、膝に顔をうずめた。
◇◇◇
このあとは買い物したい、と華緒ちゃんに連れていかれたのは、公園から少し歩いたところにある、老舗ブランドや海外ブランドのお店が並ぶショッピングモールのような商店街。
結構歩いているのにヒールを履いてる華緒ちゃんのほうがタフで、「お姉ちゃんはずっと~、妹にいろいろ買ってあげたかったんだから~」とちゃーちゃんみたく歌うように言いながら、楽しそうに服や小物を選んでいる。
私は黙ったままそれに付き合っていたのだけど、おかまいなしに服を購入していく華緒ちゃんのおかげで、ショップの袋を私の両手にいくつもぶらさげるハメになり(だってケガ人に持たせられない)、さすがに疲れを感じている。
もやもや、ムカムカ。買い物中それらもずっと続いてたから、なおさらだ。
休憩でカフェに入ったとき、無意識に膨らませていた頬を華緒ちゃんにつんつん、とつつかれて、でも私はそのまま顔を動かさないで、無表情を貫いていた、つもりだった。
「十緒子、まだ怒ってる。んん、ごめん、お姉ちゃんが悪かったから」
口も小さく尖らせていたことにも気付かされ、でももう不機嫌を隠せない。
いや、たぶんずっと隠せてなかった。でもいいや、華緒ちゃんだし、私がもやもやしてるのなんて、お見通しなんだろうし。
けど、口では反対のことを言ってみる。
「怒ってないよ」
「言い方。それならむしろ、怒ってるって言って」
「……どうせ。いっつもみんな、私には大事なこと教えてくれないから、いいよ、べつに。慣れてるもん」
「っ、私もおばあさまも、叔母様も。そういうつもりじゃ、なかったのだけど。でも、そんなふうに感じさせちゃってたのは、ごめん」
「謝んなくてもいいんだもん、怒ってないんだから」
「水野くんのことも。嘘ついて十緒子を怒らせちゃったし、結局いいアテ馬にはなれなかったみたいだし? この状況、ついでに利用させてもらおう、なんて考えがいけなかったかな、私。んん、しまったな」
「この前だってイジワルして、空の上に置いてったり……え、利用って、どういう意味?」
ぶつぶつ文句を続けようとして、途中で我に返った。
「でもねえ、こっちもこっちで、あんまりうまくいきそうにないなっ。やっぱり余計なことしちゃ、いけないのかな……と言いつつ、水野くんにメッセージを送らずにはいられない私、送信、っと」
「??? 水野さんに、メッセージ?」
「うふふ。十緒子は預かった。返して欲しくば、仕事終わりに連絡しろ、ってね」
「ええ?」
「あ、ごめん着信、って……なんでいま、徹夜明けで睡眠中のはずの人間からかかってくるかな。やっぱり私の言うことなんて聞いてくれない、ムカツク、もうっ……知らない、出ないからねっ」
華緒ちゃんはスマホをすとん、とバッグに落とし込み、止まずに続いているその振動を無視してバッグを持ち上げた。
「今日は十緒子のおウチに泊まる! ホテルになんか、帰ってやんない! そうと決まれば、パンツ買わなきゃ。十緒子にも買ってあげる、すっごくカワイイの選んだげるから!」
「華緒ちゃん、あの?」
それからランジェリーショップに連れていかれ、店員さんに採寸され華緒ちゃんに言われるがまま試着を何回かして、私の腕にかかるショップの袋が増え、でもタクシーに乗ってウチに直行だったから、そこからは楽だったんだけど。
なんだろう……こう、巻き込まれた感じと、落ち着かない感じと。
あと、なにか大事なことを、忘れてるような気がする……。
「さ! 今日の戦利品、順番に着て見せて?」
華緒ちゃんがそう言ったのは、お昼ごはんに華緒ちゃんがぱぱっと宅配で頼んだお寿司をいただいたあとで、それからは。
アパートの狭い部屋で、第一回御崎姉妹☆コレクション、開催の運びとなり……。
うん、ちょっと楽しい、けども。
<4>水野春臣も言うことにした
(4300字)
その瞬間は完全に無、なにも考えてなかったはずだ。
目から入ってきた情報の、その想定外の事態に俺の体は固まり、十緒子も、俺のほうを見たままピタリ、とその動きを止める。
その、まるで時間が止まったかのような状態からあいつが我に返るまでのほんの数秒、俺の意識のほうが先に反応し、眼球だけを上下に動かした。
華やかなレースの花をあちこちで咲かせた、胸元以外透ける素材になっているキャミソール。
その丈が太ももを隠す気もないまま終了したその先に、白くやわらかそうな脚が続いている。
再び視線が上に移動すると、キャミソールの下に、揃いのデザインのショーツと十緒子の腰のくびれが、透けて見える。生地のなくなる、胸元から鎖骨、唇をたどるライン。長い黒髪の隙間から見える、肩にかかっているキャミソールのヒモが、恐ろしく頼りない。
あのパンツ面積少ねぇし、なんつうか、すべてが脱がせやすそう……という感想が意識にのぼってきたところで、十緒子と目が合った。
俺の目の動きに気付いたようで、十緒子の顔が見る間に赤くなってゆく。
いや、これは。
断じて、俺のせいではない。
どうかしてんのは、間違いなく華緒子だ。
◇◇◇
仕事を定時にあがって即華緒子に電話し、「十緒子のウチにいるけど、来る?」と言われ、いままでの最速記録で十緒子の部屋に着きチャイムを鳴らすと、中から顔を出したのは御崎華緒子だった。
「水野くんかー、早かったね、こんばんは」
「……こんばんは」
息が切れているのをごまかしながら、挨拶を返す。「どうぞ~」と促されて中に入ると、ちゃぶ台の横に積まれた宅配ピザの箱、ちゃぶ台の上には、いくつかの缶ビールとワインのボトル、グラスが乱雑に置かれているのが目に入ってくる。
部屋の奥、カーテンを引かれた吐き出し窓の下には服やアパレルの紙袋が散らばっていて……もう出来上がってんのかよ、と思った、その瞬間、だった。
「華緒ちゃん、言われた通りちゃんと着たよ、これでいい? もー、今度はなんの宅配、」
ちゃぶ台のあるリビングと、寝室を仕切る引き戸がすっ、と開き、ぶつぶつ言いながら出てきた十緒子が、俺を見て、ことばを失った。
時間が停止した、空間。
恐らく数秒のことだった、はずだ。
キャミソールとショーツしか身に着けていない十緒子と、それを見て動けなくなった俺の横から、華緒子ののんびりした声が聞こえてきた。
「ありゃ、ラッキースケベ。十緒子ごめん、忘れてた」
「っ、華緒ちゃんのばかあっっ!」
スターンッ! と寝室の引き戸が中から閉められて、華緒子と俺はそれを見送る。
「んん、十緒子がかわいい、どうしよ。ね?」
ここで、同意を求められても。俺にどうしろと?
華緒子は「あ、こっちか」と言いながら、紙袋の中からスケスケのキャミソールを取り出した。
俺に近寄り、自身にあてがいながら、上目遣いに微笑んでくる。
「じゃーん、これも十緒子のなんだっ、かわいいでしょ~。さっきのと、どっちが好みかなっ」
玄関のチャイムが何度か鳴り、同時に寝室の引き戸がまたスターンッ、と派手な音を立てて開く。
スウェットのパーカーとロングスカートを身に着けた十緒子が、俺と華緒子の脇を通り過ぎ玄関へと足早に向かい、「わ、海藤さん? 華緒ちゃんなら奥に、」という声がして。
ドスドスという足音に振り向くと、男がリビングの入口に立っていた。
この前の、運転手のおっさんか……おそらくチカと同じくらいで30代半ば、俺と並ぶ高さの身長、細いくせに体幹がしっかりしてそうな体つきだ。
で、ここでも数秒ほど時間が停止、でもそれも俺のせいではない。
俺と、エロい下着を持って俺を見上げる華緒子、それらに刺さるような視線を向ける、運転手の男。
こいつ、無表情だが……いやたぶん、これは。
運転手、海藤が、すっ、と近寄り、華緒子の前に立つ。と、自身の体を沈め、華緒子を抱えて担ぎあげた。
「っ、海藤?! ちょっと!」
「帰るぞ」
「待ってってば!」
華緒子に言われても海藤は、ひと言発したあとは無言で、ゆっくりと歩いていく。キッチンでぽかんとそれを見上げていた十緒子が、はっとして動き出した。
「華緒ちゃんっ、スマホ! バッグと、それから……ああっ、海藤さん、靴!」
十緒子が差し出した靴を、華緒子を抱いたままの海藤が器用に持ち、身をかがめて玄関を出る。海藤の背中越しに、スマホを落とし入れたバッグを受け取った華緒子が、ため息をついた。
「十緒子、ごめんねえ。また連絡するから」
ひらひらと手を振る華緒子の髪の間から、金色のヘビが顔を出している。玄関ドアがバタンと閉まり、しん、と静かになった。
「ええ、華緒ちゃん……海藤さん?」
「あの女、俺をアテ馬にしやがったな」
うしろから、玄関にいる十緒子に近寄って声をかけると、十緒子が振り返って言った。
「アテ馬、水野さんを? ……ああっ、そういうことか!」
「どうせあの女もウワバミなんだろ? 大して酔ってねぇのに、悪ふざけしすぎだろ」
「悪ふざけ、だったのかな、」
華緒子のバッグと引き換えに手にしたエロキャミソールに視線を注ぐ俺に気付いて、十緒子が途中で言い止めた。
バッ、とそれを後ろ手に隠し、それからはっとしたように俺を見上げて、今度はくるりと背中を向ける。くしゃくしゃに丸められたエロキャミを持つ手が、ソワソワと落ち着かない。
「お疲れ、様です、あのっ、よかったらピザ、食べていきませんか? 残り物ですみません、でも箱ごといくつか残ってて、ちょっと冷めちゃったけど、あとお酒も、華緒ちゃんがたくさん買ってくれたので、その」
「なんでそっち向くんだよ」
「あの、私いま、赤鬼で……」
「赤鬼?」
ちらり、と振り返るようで振り返らない十緒子の横顔、その頬が真っ赤になっていた。
……おいおい。
おまえも俺に、どうしろと。
うしろを向いたのは顔を隠したかったからで、そのエロキャミを隠すのを失念、とか……。
どうすっかな、どうしてくれよう。いや待て、落ち着け、俺。
ニヤけそうになる顔面を眉根を寄せてこらえながら、俺はカバンを下ろし、コートを脱ぎはじめた。ジャケットも脱いで、それらを玄関の定位置に引っ掛ける。
「……じゃ、食ってくわ。手ぇ洗ってくる」
「はいっ! あっ、片付けっ、いまのうちに!」
十緒子がバタバタとリビングと寝室の往復をはじめた音を耳にしながら、俺は洗面所に向かった。
◇◇◇
「おまえが怒鳴んの、はじめて見たな」
アパレルの袋がなくなり、すっかり片付けられたリビングで。缶ビールを持たされた俺は、引き戸が閉められた寝室にぼんやり目を向けながら、言った。
空き缶や空き瓶が片され拭き上げられたちゃぶ台には、新しく開けられたピザの箱が載せられている。
乾杯したもののお互い黙ったまま、あのヘビどももおとなしく俺らを、宙に浮いた状態で見下ろしていて、そんな中俺は、ふと思いついたことを口にした。
「怒鳴りましたっけ」
「『華緒ちゃんのばか』、だっけか」
「あっ、ああ……あれは、だって……」
さっきから目をそらしっぱなしの十緒子が、さらにうつむいて、顔を赤くする。
それから、それを紛らわすかのように、ぶつぶつと文句を言いはじめた。
「華緒ちゃん、ほんとは私のお姉ちゃんじゃなくて、イトコ、じゃないや、ハトコ、なんですけど。私、うれしかったのに、いろいろわかんなかったことがわかったりして、華緒ちゃんといるのも楽しかったのに……み、ずのさん、にプロポーズしたのは、嘘だった、とか、もう……私が怒っても華緒ちゃん、私のこと『かわいい』、『好き』って、知らないうちにスマホで宅配のお酒やピザをたくさん買ってるし、お酒がすすんで『よーし、ここからはナイト☆コレクション、スタート! まずはこれ着てきて!』って、でもそれ、忘れてるとか……確かに私、着る決心ついたの遅かったけど、だから、えっと、」
顔を上げた十緒子が俺を見、また下を向いて、言った。
「お見苦しいモノお見せして、すみませんでした!」
「いや見苦しくはねぇしむしろ、っ、……そういや、おまえも相当飲んでんのか?」
「いえ。華緒ちゃんの様子がヘンだったので、なんとなく、あんまり飲まないでおきました」
「……そうか」
俺は缶ビールをちゃぶ台に置き、いつものように並んで座る十緒子の、固く握りしめられた手を取った。
ビクリ、と体を震わせた十緒子を見ながら、手に力をこめる。
「あのな」
やっとたどりついた、仕事中アホみたく長く感じられた時間の、未来である、いま。
自身の心臓の拍動が速まるのを感じながら、俺は続ける。
「おまえに、ちゃんと言わなきゃいけないことが、」
ポンッ、と音がして。
視界の端、ラグの上になにかが転がって、でも俺はそれを無視する。
(もーちゃんは、頑張ったよねぇ……)
(あらあら)
(オレら、撤収したほうがよさげだぞー、馬に蹴られるー)
(……撤収、了解)
(テテテ、テッシュウ~♪)
(真っ赤な十緒子ちゃん、頑張れ)
(小僧がヘタレを返上できるかワタクシ、見届けたかったのですが。致し方ありませんね)
「っ、うるっせえっ! おまえら、とっとと消え失せろ!」
耐えきれず立ち上がって怒鳴ると、ヘビどもの姿が音もなく消える。
ため息をつき乱暴に座り直すと、十緒子が顔を上げていた。
顔を真っ赤にしたまま俺の目をまっすぐに見つめる、その姿に気圧される。
しまった、と思ったときには、遅かった。
「あの! 私、私もちゃんと、伝えなきゃいけなくて、だから、」
っ、待ってくれ、頼むから。
そう思っても口が上手く動かせず、十緒子から目が離せない
「……好き、だって。水野さんのこと、私、やっとわかって、」
あー……クソッ、もう。
先越されるとか俺、ヘタレ決定だろ。
よかったしうれしい、ホッとして、ニヤけそうだし、けど。
こいつの前で俺は、アホでヘタレで、使えねぇし、格好悪い……もうずっと、そうだ。
十緒子の手を取り体を引き寄せ、まるごと抱えこむ。
その耳元で、俺の口がポロリと落としたつぶやきを、十緒子は拾えなかったようだ。
「……勝てねぇ、な」
「っ、え?」
だから、情けねぇことに。
別の方法で、十緒子から勝ちを得たい俺を、俺は止められない。
まぁ。
お互い覚悟は決まったようだし、いいか。
俺は、十緒子の頬を軽くつまんでから離したその手を滑らせ、頬全体を撫でた。それから、十緒子の滑らかな黒髪をすくって耳にかけ、その耳に口を近づける。
俺がこれから、そこに注ぎ込むことばを、こぼされてしまわないように。
もう『何事もなかった』なんて、言わせねぇからな。
「十緒子。おまえが、好きだ」
つづく →<その12>はこちら
あなたに首ったけ顛末記<その11>
◇◇ アテ馬は意外と馬に蹴られない ◇◇・了
(この物語は作者の妄想によるフィクションです。登場する人物・団体・名称・事象等は架空であり、実在のものとは一切関係ありません。)
【2023.03.09.】up.
【2023.10.01.】500字加筆・レイアウト他修正
【2024.02.11.】▼リンク貼付
☆あなたに首ったけ顛末記・各話リンク☆
<その1> はじめまして、首フェチの生き霊です
【生き霊ストーカー・編】
<その2> 鑑賞は生に限るが生き霊はイタダけない
<その3> 水野春臣の懊悩と金曜日が終わらない件
<その4> 御崎十緒子のゴカイ☆フェスティバル
<その5> 手は口ほどに物を言うし言われたがってる
<その6> 日曜日には現実のいくつかを夢オチにしたっていい
【ヘビたちの帰還・編】
<その7> 吾唯足知:われはただ「足りない」ばかり知っている
<その8> 天国には酒も二度寝もないらしい
<その9> どうしようもないわたしたちが落ちながら歩いている
<その10>「逃げちゃダメだ」と云わないで
<その11> アテ馬は意外と馬に蹴られない
<その12> ”〇〇”はゴールではない、人生は続く
<その13> イインダヨ? これでいいのだ!
【御崎十緒子の脱皮・編】
<その14> 耳目は貪欲に見聞し勝手に塞ぎこむ
<その15> 人生と誕生日は楽しんだもん勝ち
<その16> 隠者のランプは己を照らす
<その17> 闇で目を凝らすから星は輝く
<その18> トラブルには頭から突っ込まないほうがいい
<その19> 痴話喧嘩は甘いうちにお召し上がりください【前編】
<その19> 痴話喧嘩は甘いうちにお召し上がりください【後編】
【あかないさん・編】
<その20> 招かれざる客は丁重にもてなせ
<その21> 歌い踊るは人の性
<その22> 曖昧は望んで混沌を揺蕩う【前編】
<その23> 曖昧は望んで混沌を揺蕩う【後編】
・『あなたに首ったけ顛末記・目次』
↑ サブタイトル込みの総目次を載せた記事です。
・マガジン・小説『あなたに首ったけ顛末記』
↑ 第一話から順番に並んでます。
・#あなたに首ったけ顛末記
↑ ”新着”タブで最新話順になります。
・マガジン・小説『闇呼ぶ声のするほうへ』(スピンオフ・完結)
↑ <その14>のあとに書いたのでその辺でお読みいただくと楽しいかも?
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#人の恋路を邪魔する奴は馬に蹴られて死んじまえ
#色ボケ で話が進まないのは自分自身の性癖故の過ちであると認めたくないものだな