ピーター・ティールと倹約の思想
ピーター・ティールの『ゼロ・トゥ・ワン』を読んだので、その感想を記しておこうと思う。ティールの定義する「未来」とは、生活形式の非連続だ。現在と同じ生活形式であるならば、たとえ時間が進んでいようとも、それは停滞でしかない。かつて、産業革命で人類の生活は変わった。戦後の電気機器の普及、現代のインターネットの拡張もそうだ。そのような変革が、未来を作る。つまり、テクノロジーが人類の時を駆動するのだ。
テクノロジーもいろいろあるが、ティールが注目しているのは、エネルギーだ。現代のエネルギーには限界がある。このままグローバル化が進み、インドやアフリカなど諸国がアメリカと同程度の生活水準を実現しようとするならば、地球上にある有限な資源の獲得競争にしのぎを削らざるを得ない。したがって、そのような不幸な状況の打開のためにも、人類には新たなシンギュラリティの到来が待ち望まれており、その使命が起業家にあるわけだ。起業は、一人ではできない。しかし、大きな組織でも駄目だ。自分と進取の気質を分かち合える四・五人の仲間たちと行うのが最適だとティールは言う。一人は、芸術ならば革命が起こせるが、できることには限りがある。大きな組織は慣例に縛られて身動きが利かない。だから、ゼロから何かを作り出すのはいつも若者たちなのだ。
さて、ここからは感想だが、ティールのいう新しいエネルギーの候補は何だろうと考える。まず、誰しも思い描くのは、核融合だろう。人類は、プロメテウスの火を手にしたときから、それが風車となり、蒸機となり、火力発電となり、核分裂となってきた。人類はエネルギー革命を進んできたのだ。その都度、生み出すエネルギーは倍化し、その分、損害も甚大となった。つぎのシンギュラリティでも損害は大きくなり、もしかすると一度の事故で地球は回復不能の傷を負い、人類は半分を失うかもしれない。いや、冒険家はいつもそんな臆病風をものともせずに前へ進んできたのだ。たしかにそうかも知れない。しかし、拡大とは別の方向へと冒険を漕ぎ出すことも考えてもいいのではないだろうか。たとえば、現代の大量消費社会では、大量の消費にともない大量の廃棄物が出ている。食品ロスはわが国だけでも年間700万トンへ届く勢いだ。エネルギー革命を願う前に、現行のエネルギー使用の隙間にひしめく無駄使いを削減することができる。また、誰しもがアメリカ並みの暮らしを目指すべきなのだろうか。熱帯を抱える地域がアメリカと同じ生活水準を手にしようとすれば、まずは空調管理に多大のコストを支払わねばならない。その地域にはその地域固有の生活形式があり、その固有性の延長にこそイノベーションがあるのではないか。たとえば、わが国の住空間の失敗がいい例だ。障子や襖を捨て去り、コンクリ―の壁のなかに閉じ籠る必要が、雨の多いこの国あったのだろうか。壁に閉じ籠り、黴臭い部屋の空気を吸うことで、外の光りや音を断ち、精神までも病んでしまったのではないのだろうか。
ゴミがでないテクノロジーだけではなく、ゴミを出さない思想が求められている。それは、エネルギーの剛から柔への思想転換だ。
しかし、以上の感想はこの本を読んだ人の少なからずの人が思うところなのだろう。問題は、このような新しいエネルギー革命の志向を抱いているのが、ペイパルの創業者にして、現代アメリカに大きな影響力をもつ人物、ピーター・ティールだということなのだ。世界はシンギュラリティを求めている。