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シュミットを読んで

 現代的状況から書き起こそう。石破政権の所信表明は、湛山の「常時率直に意見を交わす慣行」という言葉を引いたあとに、「民主主義のあるべき姿」について述べた。石破によると、それは、「多様な国民の声を反映した各党派が、真摯に政策を協議し、より良い成案を得ること」だという。この石破の言が出てくる現代の社会状況として、「民主主義の危機」「民主主義のための闘い」が意識される空気があろう。だが、空気に支配される危険をかつて痛いほど経験した国家に生きる身の上として、そもそも「民主主義」とは何かを問うて考えるのもあってよい姿勢だろう。

 「民主主義」とは何か。嘗て前世紀の終わりに、アメリカの政治学者フランシス=フクヤマは、「民主主義」の勝利を高らかに宣言したのだった。それが『歴史の終わり』であった。確かに、当時、東欧の共産主義諸国に「民主化」を求める運動が広がり、ソ連の崩壊にまで至った。社会主義という実験の一つの終焉を見た感があった。だが、社会主義や共産主義もまた「民主主義」を名乗っていたのではないのか。そもそも、ソ連とはロシア帝政に対抗して生まれた国家だったのだ。フクヤマの言う「民主主義」は、資本制経済圏に回収されてしまい、政治的な特徴を持ち得なくなってしまう。

 フクヤマよりも以前、カール=シュミットはより深い洞察を記している。1823年に出された『現代議会主義の精神史的状況』には、「民主主義」にはどんな政体の基盤も持ち得ないことが書かれている。「すべての政治的方向が民主主義を利用できたとき、それはいかなる政治的内容をももたず、単にひとつの組織形態にすぎぬ、ということが実証されたのである。」(岩波文庫p.18) つまり、どんな政体であろうと「民主主義」の名によって自らを特徴づけられるのである。では、「民主主義」とは、鵺のような、或いは、現代の強固な幻想にすぎないのであろうか。もしかすると、政治家が大衆を扇動するときに使う、うってつけの美辞麗句なのではないのか。

 現代日本の政治学者である橋本努は、「民主主義」には四つの理念的な要素があると指摘している。① 支配されていることへの抵抗。② 他者を支配することの放棄。③ 政治的生活の養育。④ 自発的な規範形成の理想。橋本の言うことを前提するならば、「民主主義」は、これら①から④がときに矛盾し対抗しあいながら駆動していくひとつの運動であろう。ここで、アリストテレスによる政治の要諦である分配と調整という視点を合わせるならば、「民主主義」とは、調整のシステムに民衆を動員したものである。つまり、調整システムとしての議会が重要となる形態だろう。

 カール=シュミットはしかし、現代議会による政治決断が議場での丁々発止のやり取りをないがしろにし、裏舞台の各委員会で隠密裏になされていること指摘する。そのため、各政党も討論を重視する必要性がなくなる。「政党は、今日ではもはや討論する意見としてではなく、社会的あるいは経済的な勢力集団として対抗しあい、おたがいの利害と権力可能性を計算し、そのような事実的な基礎のうえに妥協と提携をとりむすぶ。」(p.134)

 民主主義を単なる美辞麗句の空気から解き放つための要諦は〈開かれた議会〉にこそあるのだろう。ベンタムも言っていた。「議会では思想がぶつかりあいが火花を散らし、明証へとみちびく」

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