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哲学のはじめはどんな風に?

  哲学はどんな風にはじまったのか? 

 いま「哲学」とよばれている活動は、ギリシアに起源があり、プラトンの対話編に活写されています。

 ところで、智を愛し求めるその活動に仲間=友人は必要なのかと、考えてみましょう。内省し、思索し、自己をみつめ直す、その営為は孤独な活動といった側面があるでしょう。しかし、その同じ営為の起源が対話であることもまた疑いえない事実です。納富信留さんの『哲学者の誕生』(ちくま新書2005年刊)には、つぎのような一条があります。
「「対話篇」という哲学スタイルが前四世紀に一斉に花開く起爆剤は、他ならぬソクラテスの哲学活動、つまり「対話」にあった。」(同書p.99)

 そうすると、哲学のはじまりは、自己への内省というよりも、他者との対話にはじまり、内向的な人よりも社交的な人のほうが本来的に哲学の資質がある人ということになってしまうのでしょうか。しかし、納富さんの本はつぎのように続きます。
「人々はソクラテスの姿と哲学を表現するために、とりわけこの形式(対話)を活用したと推定されるからだ。」(同書p.99)
 この仮説を採用すると、哲学において、自己への内省と他者との対話は矛盾しないわけです。もしも、哲学が一時の活動ならばその二つのどちらか一方だけだという可能性も出てきましょう。しかし、哲学がどんな風にはじまったかという考察に、時間の経過という観点をもちこめば、納富さんの言うとおり、対話においてはじまった哲学を活写するために、著者たちは内省したのだという順番が浮かび上がってきます。

 そう考えていくと、しかし、つぎの問いも浮かび上がってきます。「はじまりとは何であろうか?」という問いです。対話をしさえすればそれで哲学だったのでしょうか。たしかに、ソクラテスはそういう人物でした。しかし、ソクラテスは稀な人物であり、その類い稀さによって名が残っているわけですし、人の数だけ哲学のやり方があっても良いと考えることもできます。つまり、ソクラテスではない人物においては、昼の広場やカフェでの他者との対話をあたまに置いて、夕べの窓辺でその記憶を思い返し、そして思索し、自己を内省する形で哲学をはじめるという在り方も十分に考えられます。

 そこにおいて、哲学はまさに生きることそのことと同じになっていくのではないでしょうか。このあたりまで考えてみると、これさえあれば哲学ということもなく、また、これがなければ哲学にはならないということもなさそうです。考えつづけること、そのときに、考えつづけている友人は、何とも、つづける希望を与えてくれることでしょう。

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