可能世界と言語
「明日は晴れるからもしれない」、「昨日のうちに用意しておけばよかった」など、われわれは不確かなことや、とり留めもないことに思いめぐらしがちであり、それが人間らしくもある。そして、反対に、「かならずそうだ」と根拠のない過信を抱いたり、あるいは、「かならずそうなる」ことに近づこうと事象の根拠を探る科学的探求をつづけてきたのも、また人間であった。われわれ人間とは、「可能性」や「必然性」(はたまた偶然性)といった様相とぴったりと寄り添って生活していると言える。しかし、このあまりに人間的ともいえる様相概念の分析は、哲学者たちにとってあまりに手強い相手であり続けている。その手強さは次の命題について少し考え馳せてみるだけでも明らかだろう。
(1)ブタが空を飛ぶこともありえた。
この命題(1)の真理値はどう考えればいいのか。これが現実のブタについての話であるならば、なかなか困難であるにせよ、現実世界のすべてのブタについて調べてみればいい。あるいは動物解剖学の知見を活かせるかもしれない。とにもかくにも、現実のブタが空を飛ぶかどうかはアポステリオリな(=経験によって確かめられる)知識なのである。それに対して、可能性を表現した命題(1)は、真偽の正当化を拒んでいるようにさえ見える。そのように、経験的な正当化ができないとするなら、命題(1)は、可能性についての知識ではなく、単なる信念にすぎないのだろうか。
(2)例年の傾向からすると、明日は晴天だろう。
帰納的な雰囲気が漂っている命題(2)を、単なる信念と呼ぶ人は少ないだろう。しかし、やはりは可能性の話である。つまり、ひとことに様相命題といっても、いざ具体的な分析をはじめるなら、その細部にはそれこそ微細で複雑な様相が幾重にも重なっていて、なかなか手強いことに気づく。
とはいえ、命題(1)の否定は、つぎの命題(3)と同値であることは自明であろう。
(3)ブタが空を飛ばないことは必然的なだ。
このような可能性と必然性の間にある論理は、「可能世界」という装置を導入することで格段とわかりやすくなる。
命題(1)は可能世界を使えば次のように言い換えられよう。
(4)ある可能世界では、ブタは空を飛ぶ。
そして、命題(3)は次の命題(5)と同値である。
(5)すべての可能世界において、ブタは空を飛ばない。
可能世界という概念の先駆けはライプニッツ(1646-1716)に求められる。彼は、人間が引き起こす偶然的な意思決定を説明するために、『弁神論』において可能世界に言及した。そして、1970年代
、分析哲学のポストモダンとも言いたくなるほどに、可能世界は、時制論理や義務論理、はたまた文芸批評や心理学にまで援用されていった。しかし、様相論理の草創期の立役者の一人であるヒンチィカ(1929-2015)が考えたように。可能世界とは、現実世界のわれわれの言語と概念に支えられて存在する。つまり、つぎのような不自然な様相命題をいくらでも許すものではないのだ。
(6)ある事柄が現実に起こっているならば、その事柄が可能であったことは必然的である。
そして、なぜ許さないのかということもまた、様相の論理学と哲学の課題であり、様相概念の手強さに直面する。
さて、われわれは、それでも、様相概念とはわれわれ現実の人間の言語に基礎づけられたものであるということを作業仮説として論を進め、様相を巡る北米大陸の哲学者たちの議論を辿ることで、その作業仮説を確認していきたい。そして、そこことから、「現実性」を巡る一つの教訓が得られることだろう。