7月18日以来
まったく晴れ間のない暗い梅雨が明けたと思ったら、とても暑い8月です。
この国に生きるボクらにとって、8月は生命のこととか、戦争のこととか、考えないといけないテーマが、それこそ今年の蝉のかまびすしい鳴き声のように、心に襲ってくるのです。
それでも、今年は何だがあの日以来、どうも自殺というテーマが頭から離れず、デュルケームを読んでいます。
そこでは、われわれはどうしても、「なぜ亡くなったのか?」「原因は何だったのか?」というふうに、起こってしまった出来事に対して、過去を振りかえる形で問いを立ててしまいます。無理もありません。われわれは、現時点での生き残りであり、無為な人生の死に損ないなのです。彼が亡くなった過去の日付から自殺を考え出すからです。しかし、そのとき、〈自殺の原因など本当に問えるのでしょうか?〉 私の問いは、自殺の原因という神話に対して懐疑的です。むしろ、自殺の問題は、いまここから未来へ向かっての問いを立てた方が本質的なのではないか、と疑っています。死にたい者たちは、いまだ世界の中に安穏とたむろしており、決死のダイブを遂げた自殺完遂者を憧憬のまなざしで見ているからです。しかし、今度はその問いには、「死にたい」という何やら甘美で怠惰な心理についての精神分析のような色彩が混じり始めます。自殺の問題それ自体の〈本当の〉問題は何なのか、われわれの思索はまだ端緒にも着いていないのかもしれません。
ところで今日はデュルケームです。本題と大きく離れたところで、デュルケームの達見に出会ったので、今日はその報告です。よく知られているように、デュルケームの『自殺論』は、自殺を三つのタイプに分け、その最も近代的な形態であり、現代の課題であるところのアノミー型の自殺を取り出すことに眼目がありました。アノミーとは、無規律状態とも訳されますが、社会を揺るがす何らかの事件により、それまで溢れ出るままであった欲望の連鎖に歯止めが効かなくなり、それら成就されることのない欲望が吹きだまることからくる社会の欲求不満状態です。このような、アノミー状態からくる自殺をストップさせるにはどのような実践的な手段を打つべきか。その実践的考察において、批判対象となるのが、教育だったのです。そして、教育に対するデュルケームの冷徹な考察はすこぶる奮っています。引用を引きましょう。
「しかしながら、それは、教育に、もともとありもしない能力を期待することである。教育とは、社会を映す像であり、またその反映にすぎない。教育は、社会を模倣し、それを縮図的に再現しているのであって、社会を創造するものではない。国民自身が健全な状態にあるときはじめて教育も健全なものとなるが、それはまた国民とともに腐敗もするのであって、自力で変化することはできないのである。かりに道徳的環境が腐敗していれば、教師自身もそのなかに生きているのであるから、彼らにもそれが浸透しないわけにはいかない。」[邦訳は、中央公論社世界の名著47から。p.355]
この教育観は、たとえば次のようなルソーのきらきらしい記述と引き比べると対照的です。
「われわれは、子どもというものがまったくわかっていない。子どもについてもっている観念がどだいまちがっているのだから、進めば進むほど、正道をそれてゆく。最も賢明な人たちでさえ、子どもがどれだけのことを学びうるかというこを考えもせずに、おとなが何を学ぶべきでるかを一生懸命考えている。彼らは常に子どもの中におとなを求め、おとなになる前に、子どもがまずどんなものであるかということは考えもしない。」[『エミール』世界の名著30から。p.361]
ルソーにとって、子どもは社会契約以前の「野生」なのですから、このような記述になるのも納得がいきます。しかし、デュルケームの教育観はいったいどのようなアーギュメントになっているのでしょうか? 教育という単語を、学校行政という単語に置き換えればすぐ納得がいくのですが、教育を大人という単語に置き換えたときに、デュルケームのアーギュメントの形を見ることが、自殺の問題にとっても大事だと思われます。なぜなら、自殺者は社会の中に生きる、そして生きた実存だからです。教育がそのような実存に届くかどうかが問題なのです。大人は、子どもをこのアノミーの資本制に引き入れるだけしか能がない存在なのでしょうか? ある意味でそうだとしても、そのアノミー社会を打ち壊す〈こころの時限爆弾〉を子どもに埋め込むのが教育というものではないでしょうか? デュルケームの議論は、社会における規範観念を一枚岩の硬直したものに捉えているように思えます。しかし、同時に、何でもかんでも教育というブラックボックスに入れ込んで課題解決を先送りしたがるわれわれ現代人には傾聴されるべき達見です。
7月18日以来、彼が私のこころの座の大きな部分を占めていて、それまで心煩わせていたあれやこれやが、どうでもいいとまでは言わないまでも、何だか色を失ってしまったようでもあるのです。