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スタンリー・カベルと規則のパラドクスStanley Cavell et le paradoxe de la regele
(前回の『道徳的完成主義』という本の読解のつづきです。)
われわれの唯我論から帰結するように私の言語がわれわれの言語の紐帯であるならば、懐疑と規範の包み合いという、規則と意味のパラドクスに内在する運動も、われわれの唯我論が見せる世界の事実の一つではあるまいか。これが、われわれがスタンリー・カベルを読みながらこの連続記事で考えてみたい仮説である。
問題の焦点は規則と意味の懐疑というパラドクスである。
われわれが普段なにげなく使っているこの言語の意味が実は不確実で無根拠なものではなかろうかという問題である。
それをわかるためには、ウィトゲンシュタインが『哲学探究』という刊行予定だった後期の著作で表している事例を見ることがいいだろう。なぜなら、その事例がセンセーショナルでもあり、わかりやすくもあるからだ。
「§185 生徒は――通常の基準に照らして(nach den gewohnlich Kriterien beuteilt)――自然数の列をマスターしている。そこで我々はそれに加えて、他の基数列(Reihen von Kardinalzahlen)を書くことを彼に教え⋯⋯」
(上記引用の省略したところでは、教師が彼女に1000まで書けるか確かめるという記述が続くのだが、30くらいまでで確認は十分ではないかと思えるのに疑り深いというか執念深い教師だなと思う。そして、教わる彼女の方も根気づよいというかどんな気分でこの練習(la pratique)を続けているのかと訝しい思いがするのだ。)
とはいえここまではごくごくありふれた教育実践(la pratique pedagogique)の場面だ。そして、この生徒は教師から言われたとおりに自然数列(die Grundzahlenreihe)を1000まで順番に書けるようになる。
「⋯⋯この命令を理解していることを抜き打ちテストで確かめたとしよう。そこで我々は生徒にある数列(例えば「+2」)を、1000を超えて続けさせてみる、――すると生徒は、1000、1004、1008、1012、と書く。」
さて、ここが問題となる場面である。事件発生である。したがって、ここでこそわれわれはここがロドスと心を決めて哲学をすべき場面なのだ。つまり、なぜ、彼女は〈自然数列を書け〉という命令に、「1000、1004、1008、1012」と書いたのであろうかという問いをいかに考えていくかが肝要なのだ。
すぐに思いつくのは、彼女は「間違えたから」と考えていく道である。この道はわれわれの常識を擁護する標準的な道だと見える。そして、道のりは幾重にも分かれよう。
ところで、彼女が「間違えたから」1000、1004、1008、1012と書いたとして、何を彼女は間違えたのか。彼女はどんな理解の取り違いをしたのか。もちろん、「教えられた自然数列を続けて書く」という規則(le regle)を取り違えたのだと応えられよう。
しかし、このような当初は順当と思われていた標準的な道がなかなかに険しい道であったと気づかされることになるのだ。
ウィトゲンシュタインは1000、1004、1008、1012と書く少女に次のようなセリフを用意している。「ええ、これで正しくないのですか? こうするものだと思ったのですが」
これは一体何事であろうか。
つまり、外形的には一致している行動に、幾重にも規則が読み込めるという事例があるとわれわれは気づかされる。そして、われわれは自分の身の回りの全てのことがもしかするとそのように幾重もの規則によって幾重にも解釈可能なのではないかと懐疑を始める。その最たるものが、意味という規則的な人間の行為にも解釈の不確定な無根拠さが潜んでいるのではないかという懐疑でなのである。
ところで、今回の項を閉じる前に付言しておきたいことは、このnoteでかつて『大衆の反逆』の読解の中で書いたこととの関連である。そこでは、子ども観についてオルテガの見方とルソーの見方を対比して読解を進めた。
実は、ウィトゲンシュタインの中にも、オルテガの子どもとルソーの子どもの二つの顔が見え隠れするのだ。オルテガの場合、子どもとは野性そのものである。したがって、子どもは躾られるべき対象なのだ。意味や規則のパラドクスは子どもの未熟さゆえに出てくるバグにすぎず、われわれはしかるべきメンテナンスを施し通常運転の軌道に戻るべきだと考え方だ。対して、ルソーは子どもに輝きを見る。それは、われわれ大人が忘れてしまった何か大切なものを教えてくれるのだ。したがって、1000、1004、1008、1012と書いて素知らぬ顔の少女はわれわれに福音を知らせにきたジャンヌに映るわけである。
次回は、もう少しウィトゲンシュタインを読みつつ、カベルの読解にも触れていく予定です。できれば、付言した二つの子ども観の統一も帰結されることを示せるとうれしいです。