『金子文子と朴烈』
朝一でベルサーレ渋谷にて確定申告。終わったら休みだし、映画を観ようと前日にネット予約をしていたのでイメージフォーラムで『金子文子と朴烈』の11時の回を鑑賞した。平日だし、題材的なものもあるのか白髪の人が多かった気が。
大正時代の日本に実在した無政府主義者・朴烈と日本人女性・金子文子の愛と闘いを、「王の男」「ソウォン 願い」のイ・ジュニク監督、「高地戦」「建築学概論」のイ・ジェフン主演で描いた韓国映画。1923年の東京。朴烈と金子文子は、運命的とも言える出会いを果たし、唯一無二の同志、そして恋人として共に生きていくことを決める。しかし、関東大震災の被災による人びとの不安を鎮めるため、政府は朝鮮人や社会主義者らの身柄を無差別に拘束。朴烈、文子たちも獄中へ送り込まれてしまう。社会を変えるため、そして自分たちの誇りのために獄中で闘う事を決意した2人の思いは、日本、そして韓国まで多くの支持者を獲得し、日本の内閣を混乱に陥れた。そして2人は歴史的な裁判に身を投じていく。ジェフンが朴烈役を、「空と風と星の詩人 尹東柱(ユン・ドンジュ)の生涯」のチェ・ヒソが金子文子役を演じるほか、金守珍ら「劇団新宿梁山泊」のメンバーが顔をそろえる。2018年・第13回大阪アジアン映画祭では「朴烈(パクヨル) 植民地からのアナキスト」のタイトルでオープニング作品として上映された。(映画.com)
素晴らしい作品だった。今年観た映画ではこの『金子文子と朴烈』と『蜘蛛の巣を払う女』が飛び抜けていると個人的には思う。
昨今の世界の流れもあるし、もちろんそれと呼応する部分もある。# metooやフェミニズムが大きなムーブメントになっているが、この二作品にはどちらも要素としてはある。『金子文子と朴烈』はタイトルの二人は同志であり、恋人であり、かけがえのない存在だが、二人は男女同権というか対等な関係でそれがほんとうにカッコよかった。
関東大震災が起きた後にその混乱に紛れて日本政府が社会主義者や朝鮮人や在日の人たちを総検束した。井戸に朝鮮人が毒を入れたという嘘が流布され、自警団という名の生贄探しの日本人が大人だけではなく子供、老若男女の朝鮮人を大量に殺した朝鮮人大虐殺が起きてしまう。
普通の、市井の日本人が大地震の混乱の中で恐怖心に煽られ、同時に政府への不満へを抱かさないために彼らが流布したことを信じて、多くの罪のない普通に住んでいる、地震の前には同じ町に住んでいた朝鮮人たちを殺した。
冒頭で朴が人力車で運んだ日本人の客に金が足りないと言うと相手が怒って、彼をボコボコにするように差別はあったし、日本人が朝鮮の人を見下していたという描写が出てくる。また、内閣で内務大臣をしていた水野錬太郎の個人的な朝鮮、韓国への憎悪が井戸に毒を入れたとか、彼らを拘束させることになり朝鮮人虐殺を引き起こすことになる人物がいる。本当にレイシストでしかない。残念なことにほぼ100年前の1923年に起きたこのことは現在の2019年の日本とあまり変わりがない。
何年にも渡って嘘をつき続けていたことの責任を取らない内閣の長である総理大臣、彼の下の副総理も責任も取ることもない、ただ不正をしても罰せられることなく、報道を規制していく。都合の悪いものは排除しようとする姿勢、国民の不満の矛先を自分たちに向けないために韓国や中国を敵のようにして、注意をそらす。
差別主義者ばかりになるのは、なにか信じていた価値観やあると思っていた経済的な成長が失われて行くときに「私」を担保してくれていたものがなくなるからだ。そして不安になる人たちは、国家や民族にその「私」を託そうとする。くだらない、そんなことをしても意味なんかないのに。そうして、国家や民族を拠り所にする人たちは簡単に流されて、差別主義者になっていく。本当の敵はそういうことを扇動しているもののはずなのに。気づかないのかもしれない、そこで自分を正当化できなくなるともはやなにもかもなくなってしまうから。
空気を読むことだけが優先される。村社会から疎外されることを恐れるように教育された世界では、刃向かうことができにくくなる。経済成長が可能でこれから先も伸びていくという可能性があるときには、個性よりも従順な平均的な会社員が求められた。それもどこか戦争のために教育がなされて、従順な兵士が必要だったようなものに近い。
組織の一員として上に逆らわずにしっかり働く労働力として、空気を読むことは必要な能力だった。そんな時代もとうの昔に過ぎ去って、もはや経済大国でもないのに、なくなったら価値観が変わっていくことが怖くて大きな声に流されてしまう。この映画で描かれている簡単に嘘に騙されて大虐殺をした一般の日本人、軍の者もいるのだが、ヘイトスピーチやレイシストな発言をSNSで垂れ流している人が思い浮かぶ。
彼らのような残念すぎる、考えることを放棄しているようにすら見える国会議員は何人もいて、そいつらは与党の考えを煮詰めたようなものとして、鉄砲玉のような存在として飼われている。だから、そいつらが暴言や差別的な発言をしても首を切ることはないという事実だけがある。
だからこそ、今観るべき映画だと言える。そして、韓国映画として制作されていることに注目しないといけない。朝鮮人虐殺が起きたことを隠そうとした日本政府があったことも事実だ。
日本映画はこういう骨太な作品を作れなくなっている。作りたいと思っていても映画会社や製作委員会からは許可も金も出ない。政治的な作品はウケないという理由なのかもしれない。それこそがマーケティングという言葉に踊らされたツケだ。
近年韓国だけではなく、アメリカでも政治的な事件やかつて起きた実話を元にした映画がいくつも作られていて、クオリティも高く、ヒットもしているのに。ねえ、そういう作品観たいんですよ。女子高生の恋愛ものもやるべきだしアイドルものも、テレビドラマの劇場版も漫画や小説の発行部数が多いから客数が予想できるみたいなのもやってていいから、こういうものを作っていかないとほんとうにヤバいよ、日本映画が世界で戦うことがどんどんできなくなる。というかなっている。
冒頭で朴の書いた「犬ころ」の詩を読んで彼と出会うことになった金子文子は同じくアナーキストとして同居を申し出て、生涯の同志となる。朴と金子は朝鮮人大虐殺のスケープゴートにされそうになる。だからこそ、彼らはそのことを隠させないために暴挙ともいえる行動に出る。
法廷での愛を告白するシーンもあるが、金子文子は一人の個人として考え、おかしいものへはおかしいと言い。権力に対して唾を吐いた。彼女は朴のアナーキストとしての姿勢(民衆は敵ではないとはっきり言って、国家やシステムに対して異議を唱えていた)に共鳴し、彼女もまたそういう人間だった。文子はとてもチャーミングで、ふたりでいる時の表情は大切な人といる時にこそできるリラックスした顔で、美しかった。
法廷の二人の挙式のような場面、朴烈と金子文子のアナーキストとしての言葉はほんとうに聞いていて、なにかが解放されたような気持ちになった。
個人の尊厳や自由が国家や大きな力によって不条理に制限されたり剥奪されそうになる時には、声をあげないといけない。あるいは行動に起こすしかない。しかし、行動を起こすために必要な情報がなかったり、あるいは報道がされていなかったりして、偏ってしまっているという現状もよく言われている。
国家は国民やその地に住む人たちのためにあり、国家公務員というはその国民に使えるものだ。公僕と呼ばれるのはそのためだが、内閣を始め今の与党の政治家はどうも勘違いしているようにしか思えない。国民が国家に奉仕すると思っているのだろうか、だからこそ、あんな知性のない恥も知らない政権が何年も続いているのだろう。そして、報道の力、ジャーナリズムはそれらを監視する役目のはずだが、今の日本ではそれが失われている。そんな時代だからいろんなことが難しくなっている。
ポストトゥルースの時代は嘘が平気で混ざり込んで堂々とした顔をしている。それは安倍政権やトランプ政権誕生ということだけはなく、イラク戦争の大量殺戮兵器という嘘とインターネットとSNSの普及から始まったことだと思う。
ゼロ年代とこの10年代はそういう時代になってしまった。いろんなものや大きな権力が腐敗していった時代だとのちに言われるのだと思う。この反動がちゃんと20年代以降には起きてほしいし、自分も含めて考えて発言したり行動したいと思う。こういう映画が今観れるということはとても大事なことだ。
金子文子は死刑から無期懲役に減刑されたあとに獄中で死亡する。それを聞いた朴の叫びが観る者へ響く。
文子の亡骸を「不逞社」の仲間たちが掘り起こしに来る時に仲間の一人が「ここは寒いだろ」って言った時に泣いてしまった。終わった後には何人かの人がおおきな拍手をしていた。そういう映画だった。
大逆罪というものが作品に大きく関わってくるが、戦後日本でも若者たちが皇太子(現・今上天皇)を狙った事件がいくつか起きた。彼らと戦後を代表する小説家たち(大江健三郎、三島由紀夫、石原慎太郎)たちの関わりを描いた大塚英志原作・西川聖蘭作画『クウデタア 完全版』という漫画がある。原作者の大塚英志さんにインタビューをしたものがあるので以下にリンクしておきます。
星海社の「最前線」とBOOKSTANDの前後編は微妙に中身が違うものとなっています。
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