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ヨガとボーガ⸺二つの道
はじめに
「ヨギは人生を恐れ、平和を探し求めます。一方、ボーギは冒険的精神いっぱいに前進するのです。ヨギは理想に束縛され、一方、ボーギはつねに探険する用意があります」
これはインドの聖者ニサルガダッタ・マハラジと、ある相談者との対話の一節です。私たちがよく抱きがちな固定観念では、ヨギ(ヨガ行者)は節制や修行を貫き、清らかで崇高な生き方を体現する存在とされ、逆に世の楽しみに浸るボーギは低俗な道に逸れてしまった人というイメージがあります。しかし、この対話に登場する相談者は、むしろ「ボーギのほうが魅力的ではないか」という大胆な問いを投げかけ、それに対してマハラジは「ヨギとボーギを対立させること自体が無駄だ」ときっぱり言い切っているのです。こうした言葉は、私たちの中に染みついている「聖と俗」の二元的図式を揺さぶり、ヨギとボーギの境界を超えて広大な視野を開こうとしているかのように思えます。
この論点を古くから象徴してきたのが、8世紀ごろのインドの哲学者アーディ・シャンカラーチャリア(シャンカラ)の詩句「yogaratova bhogaratova(ヨーガラトーヴァー・ボーガラトーヴァー)」です。字義通りに取れば「ヨーガ(霊的修行)に没頭していようと、あるいは世俗的な楽しみ(快楽)に浸っていようと……」という意味ですが、続く部分では「心をブラフマン(絶対的真理)に向けている者は、真の歓喜を得て喜びに満たされる。」という主張が鮮明に打ち出されています。要するに、私たちが思いがちな「ヨガ=清い」「ボーガ=汚れた享楽」といった二元論をいったん脇に置き、究極的には“心がどこに焦点を合わせているか”が決定的なのだというメッセージが含まれているのです。
yogaratova bhogaratova
sangarathova sangaviheenah
yasya brahmani ramate chittam
nandati nandati nandatyeva
「たとえヨーガ(霊的修行)に没頭していようと、あるいは世俗的な楽しみ(快楽)に浸っていようと、人との交わりをもっていようと、孤立していようと、心をブラフマン(絶対的真理)に向けている者は、真の歓喜を得て喜びに満たされる。」
しかしながら、現代に生きる私たちの多くは、このメッセージを文字どおり受け取りにくい環境にあります。ヨガは大いに普及し、健康法や精神安定の手法として世界的に親しまれるようになった反面、ボーガと呼ばれる生き方については「快楽主義」「俗っぽい」といったややネガティブなイメージを抱きやすいからです。そのため、ヨガを真剣に学んでいる人の中には、ボーガを理解しようとしないまま、“欲望の道”として切り捨ててしまう向きもあるでしょう。一方で、ボーガ的な楽しみを選ぶ人の中には、ヨガのストイックさを苦手として距離を取り続ける人もいて、両者が相いれることはないかのように見えます。
ところが、ニサルガダッタ・マハラジの対話やシャンカラの詩を読み解くと、こうした対立は、実は表層的な誤解や先入観に過ぎない可能性が見えてきます。古くからインド思想は「不二一元論(アドヴァイタ)」という統合的視野を育んできました。そこでは「世界は多様に見えても、根底では一つの実在につながっている」と考え、ヨガであれボーガであれ、最終的に悟りへ向かう潜在力を持つ⸺という大胆な見取り図が提示されていたのです。
さらに、ここに哲学的・社会学的視点を加えてみるならば、現代社会において人々がヨガに魅力を感じるのも、あるいはボーガ的生き方を選ぶのも、その根っこには「社会構造が生む個人の苦しみ」という共通要因があるのではないかという問題意識が浮かび上がります。現代人は競争や管理、情報過多のなかでアイデンティティや余裕を奪われ、疲れ切っているケースが少なくありません。その苦しみに耐えかねた末、ある人は瞑想や節制に救いを求めてヨガを選び、別の人は逆に楽しみや喜びを優先してボーガの道を歩む。こうした選択は、それぞれに大きな意味を持ち得るはずです。
本稿では、ニサルガダッタ・マハラジと相談者の対話、そしてシャンカラの「ヨーガラトーヴァー・ボーガラトーヴァー」をテクストにしながら、ヨガとボーガがいかに単純な二項対立を超え、社会構造による苦しみに対する異なる応答として機能しつつ、究極の悟りへも通じ得る道であるかを考察してみたいと思います。ヨガを真剣に学ぶ人がボーガを見下すべきではない理由、そしてボーガを愛する人がヨガを拒絶せずに済む可能性。そうしたテーマを、人間の自由や成長という文脈、さらには現代社会の矛盾やストレスとの関係と合わせて掘り下げていきましょう。
ニサルガダッタ・マハラジの対話に見るヨギとボーギ⸺対立ではなく選択の多様性
ニサルガダッタ・マハラジの残した対話集を読むと、ときに私たちの固定観念を揺るがすような表現に出会います。相談者が「ヨギは人生を恐れて理想に縛られているが、ボーギはもっと豊かに世界を味わい、人生を冒険するものだ」と指摘するのは、たしかに従来の「ヨガ=清くて高貴」という先入観に反する思いきった言い方でしょう。ところが、マハラジはそれを全面否定することなく、「ヨギとボーギを対立させることは意味がない。どちらも最終的な完成へ寄与するのだ」と述べています。
ここで興味深いのは、ボーギと呼ばれる生き方が「ただ快楽を求める乱雑な生き方」として描かれていないことです。むしろ、「木に残って自然に成熟する果実」の比喩を借りながら、人生や社会の多面的な現実をしっかり受け止め、その中で自分なりに豊かな甘みを育んでいく態度として肯定されています。もちろん、そこには欲望や執着のリスクもあるでしょうが、同時に人間としての幅や厚みを養う可能性もあるわけです。いっぽうヨギは、一点突破のために多くの余計な要素を早々に切り落とす分、「本来の香りや味を失うかもしれない」というデメリットを抱えるとの視点も提示されます。
ニサルガダッタ・マハラジは終始、「どちらが良い悪い」ではなく、「最終的に何を見ているか」が重要なのだという立場です。ヨギは理想に縛られる危険性と同時に、瞑想や内省によって深い静寂を得るチャンスがある。ボーギは社会のさまざまな豊かさを受け取りながらも、執着に溺れるリスクがあり、一方で多面的な視野を得て成熟する可能性がある。ともかく大切なのは、両者を単純に二分するのではなく、それぞれに応じた学びのプロセスを尊重することだというわけです。これに「ヨーガラトーヴァー・ボーガラトーヴァー」の詩句が重なると、内心で「世俗に浸るより、ヨガを選ぶほうが上だ」と思い込んでいる人も、はたまた「ヨガなんてつまらない」と退けている人も、考えを改めるきっかけを得られるかもしれません。
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社会構造が生む個人の苦しみ⸺ヨガへの道、ボーガへの道
この対立をより立体的に理解するには、現代社会の構造に目を向けてみることが不可欠です。私たちは資本主義や管理社会、情報社会の中で生きており、特に競争や生産性の価値観が広く浸透した環境で日々を送っています。こうした社会では、常に「もっと成長しなければ」「時間を無駄にしてはいけない」といったプレッシャーが個々人を追い立て、物質的な豊かさと引き換えに精神的な疲弊を増大させる傾向があります。あふれる情報や複雑なコミュニケーションによって、アイデンティティや自尊感情を揺さぶられるケースも多いでしょう。
そんな社会の中で、「自分を取り戻したい」「心の安定を得たい」と強く願う人が、ヨガという道に惹かれていくことはよくあります。アーサナや呼吸法を通じて身体の声を聞く時間を持ち、瞑想によって雑念を沈め、スピリチュアルな次元で自己を確立しようとする。そこには確かに社会のノイズから一歩下がり、内なる静けさを取り戻す効果があると多くの実践者が証言しています。つまり、ヨガを選ぶ背景には、社会構造に由来する苦しみをどう克服するかという切実な問いが隠されているのです。
一方、同じ社会構造に追い詰められたとき、ボーガ的な選択に向かう人もいます。働きづめや人間関係の圧力に疲弊した結果、「せめて休日くらいは自分の好きなことに没頭し、楽しみを満たしたい」「競争に埋没するのはもう御免だから、自由に旅や趣味を深めたい」という思いが芽生える。その行為が単なる快楽逃避に終わることもあれば、想像もしなかった社会や人々との出会いによって視野を広げ、結果的に自己認識を深める場になることもあるでしょう。ここでも重要なのは、ボーガを通じて得られる経験が、社会に適応しきれない人にとっては一種の救済となり得るという事実です。まさに、「社会的苦しみの反動」としてボーガに開かれる場合もあるわけです。
こうした観点からすれば、ヨガかボーガかという選択は、「どちらが高尚か」ではなく、「社会の圧力や歪みとどう向き合い、自分らしさをどう見いだすか」という問いに対する異なるアプローチなのだと考えられます。ニサルガダッタ・マハラジの対話を読み解くと、ヨギは集中的で鋭い道、ボーギは多面的で冒険的な道を選ぶだけであり、どちらも苦しみを契機にスタートしていて、あとは心の向かう先次第で“大きな完成”にたどり着くかもしれない、という話になるわけです。ヨギは瞑想によって、ボーギはイーシュワラプラニダーナによって。マハラジの相談者は語ります。「ヨーギは楽しむために放棄し、ボーギは放棄するために楽しむのです。ヨーギはまず放棄をし、ボーギはまず楽しみます。」
ヨーガラトーヴァー・ボーガラトーヴァー⸺シャンカラの不二一元論と両立する自由
アーディ・シャンカラーチャリアの詩句「ヨーガラトーヴァー・ボーガラトーヴァー」は、その後に続く一節も含め、「意識が絶対的真理(ブラフマン)に向かっているかどうか」が重要であり、外形的な生活スタイルは二次的問題に過ぎないことを示しています。彼が大成した不二一元論(アドヴァイタ)は「森羅万象はひとつのブラフマンの顕現であり、真我とブラフマンは本来同一である」という大命題を核としています。そこでは、「ヨガのように世俗を捨て去る生き方」にも「ボーガのように世俗を肯定する生き方」にも、ともに最終的な覚醒へ至る可能性が認められている、と解釈できるのです。
もちろん、シャンカラ自身はウパニシャッドなどの古典を厳格に注釈し、概して世俗的欲望は執着を増やす原因にもなり得ると語りました。しかし、その一方で「ヨーガラトーヴァー・ボーガラトーヴァー」と繰り返し強調される精神からは、「外面上の振る舞いに囚われず、深い内面でブラフマンを思い、知ること」が鍵だというメッセージが響いてきます。ニサルガダッタ・マハラジもまた、不二一元論に立脚していたがゆえに、あえてヨギ・ボーギという外形的区分を重視せず、最終的な悟りの可能性をすべての方向へ開いていたのでしょう。
このことは現代社会にも大いなる示唆を与えます。ヨガを学ぶ人が往々にして感じる優越感⸺「私は節制的に努力している。だから世の快楽に溺れるボーギよりも上だ」という感情⸺は、ヨガに真剣であるならば薄れていくはずです。同じく、ボーガを選ぶ人が「そんな修行なんて堅苦しくて嫌だ」と最初からヨガを拒むのも、やはり誤解に過ぎないかもしれません。両者が「多様な道を互いに尊重し合うこと」は、シャンカラの詩句やニサルガダッタ・マハラジの対話が示す“不二の精神”を現代に生かす道とも言えそうです。
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タントラにおけるボーガの扱い⸺誤解と再評価
ボーガをめぐる議論では、タントラの伝統も必ず顔を出します。タントラはインドにおいて中世以降、多様な宗派(シヴァ派やシャクティ派など)で発達し、あらゆる感覚的体験や身体的営みを“神の顕現”として捉え、それを正しい方法で制御・儀礼化し、悟りへ昇華することを目指す思想でした。ここでは、ボーガのように五感を通じた経験や世俗の多彩な喜びも排斥せず、むしろそれらを熟知し取り込みながら超越へ至るルートが探究されたのです。ハタヨガの成立自体、タントラの影響を強く受けていることは真剣なヨガ実践者であればご存知でしょう。
しかし近代以降、西洋を介した誤解や、一部の要素がセンセーショナルに強調された影響で、タントラはしばしば「怪しい儀式」や「放縦的快楽主義」と同一視されがちになりました。さらに現代の商業主義がそれを利用し、部分的に誇張した形で広まることで、ボーガ的アプローチが浅薄な快楽主義として扱われてしまうケースも見受けられます。しかし、伝統的なタントラの文脈では、ボーガとは「ただの享楽」ではなく、「世界に遍在する神聖な力との合一を体験するための多彩な入り口」でもあると見なされてきたのです。そこには高度な修行体系が前提となり、雑な快楽とは一線を画す厳しさがあったことを理解する必要があります。
このように考えると、ヨガかボーガかという問題は、単純な快楽・節制の話にとどまらず、私たちがこの世界をどのように神聖なものとして尊び、それを通じていかなる自己覚醒を得るかという壮大なテーマへつながっています。ニサルガダッタ・マハラジが対話の中で「あらゆるものは自己の顕現だ」と語るように、不二一元論の立場からすれば、世界と自己を切り分けることに大きな意味はありません。ヨガであれボーガであれ、そこに本質を見いだせるかどうかが問題になるわけです。
悟りへの入り口としてのヨガとボーガ⸺社会学的評価
ヨガとボーガは、いずれも社会構造が生み出す苦しみに対する対処策として機能するだけでなく、さらにその先で悟りや解脱と呼ばれる深い内面変容のきっかけにもなり得ます。ヨガに打ち込む人は、社会の喧騒や競争原理を一時的に離れ、静寂と集中の中で自己と対峙する。その結果、自己抑制や洞察力が高まる一方、過度に理想を追ってしまうと独善や抑圧に陥る危険性もあります。ボーガを選ぶ人は、社会や人間関係がもたらす制約を相対化し、もっと多方面に手を伸ばして人生を冒険する自由を謳歌する。しかし、何でも取り込む過程で自分自身を見失い、絶対的真理から遠ざかる恐れもあり得るでしょう。
それでも、こうしたメリットとリスクを冷静に見比べたとき、両者ともに「人が本当の意味で自分らしさを回復し、社会によって歪められた部分を癒していく」作用を持ちうると考えられるのは非常に興味深いことです。哲学的に見れば、ヨガの道は“内観と制御”を重んじ、ボーガの道は“外界との交感”を重んじるという違いがあるにせよ、どちらも社会構造の重圧を乗り越えるための有効な手段となり得ます。社会学的に言えば「社会的苦しみに抵抗する個人の戦略」が形を変えて現れたものだともいえるでしょう。
ニサルガダッタ・マハラジが掲げる不二のビジョンは、ヨガもボーガも最終的には「意識が真我から離れていないかぎり至福に至る」という見通しを与えてくれます。こう聞くと、大胆な放縦を肯定するメッセージに聞こえるかもしれません。しかし、実際には「結局は内面の覚醒がカギであり、外形がどうであれ悟りには道が開かれている」ということを意味しているだけです。その外形が節制的か享楽的かは、あくまで導入に過ぎず、どちらにも「自分を誤らせる可能性」もあれば「奥深い悟りへ至る可能性」もある。だからこそ、ヨガの道にせよボーガの道にせよ、実践者が常に注意深く意識を観察し、“欲望や苦しみをどう変容させるか”を意識し続ける必要があるわけです。
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ヨガを真剣に学ぶ人がボーガを下に見ないために
ヨガに真剣に取り組む人の中には、自分のストイックさや道徳性に少なからぬ誇りを持ち、「あえて節制や厳しい訓練を選んでいる」という自負があるかもしれません。ところが、ニサルガダッタ・マハラジの対話やシャンカラの詩を読むと、「ボーギにはボーギの優れた点がある」という認識があり、しかも最終ゴールは同じだとすら言います。ここに戸惑いを覚える人もいることでしょう。しかし、それこそが「ヨーガラトーヴァー・ボーガラトーヴァー」のコアメッセージであり、私たちの頑なな二元論を柔らかく解す力を持っています。
実際、あまりにも節制や戒律を重視すると、内面的な抑圧が強まり、かえって自分の気づかないところで歪みが生じることがあります。ヨガに励む人が、いつのまにか自分のやり方に固執し、他者への優越感を募らせてしまえば、それは本来の解放とは逆行する結果になりかねません。そこで「ボーガ的な楽しみは一切の悪」というレッテル貼りをせず、むしろ「それぞれの道の先に学ぶものがある」という共通土台を見いだすことで、ヨガの道をさらに深める余地が生まれるとも言えます。意外にも、ヨガに打ち込む人がボーガの要素を少し取り入れることで人生の多面性を受容し、より豊かな自己を回復するケースもあるでしょう。
ボーガ的生き方を選ぶ人がヨガを拒絶しないために
反対に、ボーガに親しむ人からすると、「ヨガなんて堅苦しい、意識高い」と敬遠してしまう向きがあるかもしれません。たしかに、ヨガのイメージとして多くの人が抱くのは「早起きしてアーサナをこなし、食事制限もし、性質や感情をコントロールして瞑想に打ち込む」といったストイックな連想でしょう。ところが、ニサルガダッタ・マハラジの言葉に耳を傾けると、ヨガそれ自体が目的なのではなく、「ヨガという集中の方法を通じて、最終的に心が真我を思い出すための道具である」という視点が見えてきます。つまり、それはボーガの否定とイコールではないのです。
ボーガの道を極めていく中で、やがて「これだけ外の楽しみを尽くしても、根源的な満足には至らない。自分の人生は全て無駄だった。」と気づく瞬間が訪れる人がいるかもしれません。そのとき、ヨガ的な手法や瞑想の深まりが強力な助けになり得るでしょう。多様な祭壇を礼拝してきたボーギであればこそ、その時点で初めてヨガの神髄に心を開き、「なるほど、こういう内面への深まりがあるのか」と体感することがあるわけです。いわば外面から内面へ移行する契機が自然発生的に訪れる。これを、ニサルガダッタ・マハラジは「外面への道(プラヴリッティ)は内面への道(ニヴリッティ)を必ず先行する」と表現し、どのようなアプローチでも「最後は心が真我へ回帰するプロセスが始まる」と示唆しているようにも読めます。
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悟りや解脱とは何か、そしてそこに至らずとも得られる幸せとは
では、ヨガとボーガがともに行き着く可能性があるという「悟り(あるいは解脱)」とは、何なのでしょうか。古来、インドの伝統では「アートマン(真我)=ブラフマン(絶対的実在)」を直接体験することが悟りの定義とされることが多く、シャンカラやニサルガダッタ・マハラジも徹底的にこの不二一元論を説いてきました。その世界観に立てば、「自分と他者」「聖と俗」「節制と享楽」といったすべての区別が根本的には仮の姿であり、本来は一つの意識の海である⸺という認識に落ち着きます。
ただし、そこに到達しない人が大半ですし、「悟り」という言葉自体にピンとこない人も多いでしょう。それでも、ヨガによってストレスや不安が軽減され、人間関係に少し余裕が生まれるなら、それは一つの幸福ですし、ボーガを通じて世界の広がりを感じ、心にゆとりを取り戻すことができるなら、それもまた尊い成果です。つまり、悟りを最終ゴールとしつつ、そこに至らずとも多くの人のための幸福や安定が、ヨガにもボーガにも備わっているのです。
問題は、私たちが「社会が生む苦しみ」にどうアプローチするかという点です。ヨガかボーガか、どちらを取るかはともかく、仮にその選択が「自分の意識を成長させ、人として豊かになるための糧」になるならば、結果的に悟りへ続く道程になり得るのでしょう。ニサルガダッタ・マハラジが強調するように、あらゆる経験(ボーガ)から深い洞察を引き出し、あるいは瞑想や節制(ヨガ)によってひたすら内側を磨くか、そのいずれかから真我を覚醒する引き金が現れる可能性があります。「ヨーガラトーヴァー・ボーガラトーヴァー」⸺どちらのスタイルであれ、心が究極へ向かうなら至福は遠くない、と言うのです。
終わりに
「ヨーガラトーヴァー・ボーガラトーヴァー」という短いサンスクリットの詩句には、世間の二分法を超越するほどの含意が詰め込まれています。ヨガは清浄で偉い、ボーガは低俗だというステレオタイプを打ち破り、「両者はいずれも意識の向かう先を誤らなければ悟りへの道となり得る」との洞察がそこにはあるのです。これは、ニサルガダッタ・マハラジがヨギとボーギを対立構造ではなく“それぞれのプロセス”として語る内容とも見事に響き合います。
そして、現代社会においては、その背景には必ず「社会が生む苦しみ」があるという社会学的視点を忘れてはならないでしょう。資本主義と管理社会が個人に押しつけるストレスや競争、あるいは孤立や疲弊から逃れるために、人はヨガの道を選ぶかもしれませんし、逆にボーガの道を選ぶかもしれません。どちらも苦しみに対する一つの応答として有効性を持ち得るし、行き過ぎれば別の形の行き詰まりに陥る可能性もあります。
だからこそ、シャンカラやニサルガダッタ・マハラジが示唆するように、表面的な節制・享楽の違いよりも「最終的な意識の在り方」がはるかに重要になるのです。ヨガに真剣に励む人がボーガを否定すべきでないのは、ボーガにも真の成長や悟りへの契機があるからであり、ボーガを愛する人がヨガを拒まなくていいのは、ヨガにも人生の深みをもたらす要素があるからです。そこを相互に理解し合えば、社会構造がもたらす苦しみに対して、私たちはより多角的かつ柔軟に対処できるようになるでしょう。
最終的にたどり着くとされる「悟りや解脱」とは、すべての区別や分離感が消え失せ、世界と自己が同一であることを体感的に悟る境地だと伝統的には語られます。そこに至るか否かはさておき、ヨガとボーガの垣根を相対化してみるだけで、私たちの視野は驚くほど広がります。社会がもたらす苦しみにさらされている人々が、ヨガを通じて内面の静寂を取り戻すのも一つの道ならば、ボーガを通じて多様な感性を花開かせるのも別の道。そして、どちらも内面の変容が深まるならば、「ヨーガラトーヴァー・ボーガラトーヴァー」の詩が予言するように、“真の平安”に触れうるのです。
ニサルガダッタ・マハラジが、ヨギやボーギを単なるレッテルとして処理せず、「あなたが何を目指しているか」がすべてを決めると説いたように、私たちもこの時代に同じ問いを自らに投げかけてみる必要があります。ヨガを選んでいるからといって安心してはいけないし、ボーガに浸っているからといって自らを卑下する必要もない。大切なのは、社会構造が生む苦しみを一つの出発点として、そこから真に自由になりたいと思うかどうか。その探求の道のりが、たまたまヨガに近づくか、ボーガに近づくかは、それぞれの性向や運命的な縁によって変わるのでしょう。どんな形をとるにせよ、最終的には意識の焦点が悟りへの鍵を握っている。この事実をわきまえておけば、私たちは聖と俗、節制と享楽という狭い区別から解放され、ニサルガダッタ・マハラジやシャンカラが見つめた雄大な不二の海へと一歩近づくことができるはずです。
ヨーガラトーヴァー・ボーガラトーヴァー⸺どの道を選んでも、社会的苦しみを越えて自己を知る可能性はあります。この言葉をかみしめるとき、私たちはヨガとボーガの双方に共鳴する普遍的な教えを発見し、それを通じて現代社会の混迷や個人的な悩みを超えるためのヒントを得られるかもしれません。悟りがどんなもので、どうやってそこに至るか否かは各人の旅路に委ねられるとしても、まずは私たちが生きる“今ここ”で、ヨガとボーガという二つの道を再評価し、社会の枠組みが生み出す苦しみを乗り越える糧として活用しうるのだと認め合うこと。それこそが、この混迷した時代において新しい智慧となり得るのではないでしょうか。
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