臨死体験ブーム
そっか、臨死体験の翻訳本が出たのは、1977年。
レイモンド・ムーディー著「かいまみた死後の世界」
臨死体験の研究報告が最初に医学雑誌に掲載されたのが、マイクル・B・セイボムとサラ・クルージガーの共著論文で、1975年の「フロリダ医師会誌」だったらしい。
『「あの世」からの帰還 臨死体験の医学的研究』マイクル・B・セイボム著 笠原敏雄訳
をあらためて読み始めている。
その「日本版初版への序文」と「訳者後記」を読むと、臨死体験というものが、あらゆるこの世の問題解決に非常に重要であるにも関わらず、さまざまな問題でその研究が広がっていないのだということがよくわかる。
1975年に、エリザベス・キューブラー=ロスとレイモンド・ムーディーのふたりの医師があいついで出版されたときのキリスト教会と医学会の反撥の、話が面白い。
日本版初版への序文から引用する。
教会の立場は以下のようだったらしい。
信者でなければ天国に行けるはずがないという教義があるのに、教会に、通っていない者までが臨死体験の中で天国に行ったと言い、逆に熱心な信者でもそういう体験をしないのは不都合だということらしい。
また医学界からの反撥は、死の定義ができなくなるという理由だったらしい。
1968年頃にハーバード大学て決められた死の定義により死んだと判定された者が生き返り、その間にあった臨死体験を語るという例があり、それは、どの時点で死と判定するべきくわからなくなるということだ。
臓器移植の問題がそこででてくるわけだ。
キリスト教会の反撥は、宗派こそ違うが、同じ問題を我が宗派でも孕んでいるのだ。
このため、その宗派の僧侶は、臨死体験をどちらかというと、批判的立場で見てしまい、教義に存在する問題を批判的に捉えるのではなく、外側から入ってくる新しい事実の欠点を暴くことに終始して、わが教義を守るわけだ。
これは、宗教だけでなく、学派と呼ばれるものも同じような思考方法だと思う。
そして、科学的な研究が進みづらい、臨死体験は、科学側から、そして、教義主義の宗教側から批判され、やがてブームが去ってしまうわけだ。
1977年からすると45年経っている今、当時そういった論文を目にした人々は、バリバリの30台だとしたら、もうポロポロの80台手前になっている。
臨死体験の本は最近ではほぼ出版されていないだろうから、今の30台の、バリバリの人々は目にする機会がない。
そういう部分に近い心理学を扱う人々は、大学で教えられないだろうし、もちろんそんな教科書すらない。
僕は誠に残念だと思う。
生と死の間の問題を扱わずして、どうして生を定義できるだろうか。
虚数を扱わずに空間を定義するようなものだ。