学校が、どんどん商業主義に飲み込まれていく!(埼玉県教委が中学校へのスマホ持ち込み緩和 懸念は? メリットは? 産経新聞1月26日)
スマホを学校へ持ち込んでも良いという意見が出だして、何年たつだろうか。緊急時にスマホがないと困るという意見が出てきて、日常でも使っているからと、どんどんスマホの持ち込みが認められるようになったが、教育という観点から見て、それは、本当に良いことなのだろうか。
もう一度、本当に良いことなのかどうなのかを考えてみるべきではないか。私の一番の危惧は、この問いに、皆さんは、何を思うかなのだ。
「スマホは、単なる道具なのか?」
「スマホは、鉛筆や辞書や参考書やただの電話機能やカメラ機能のある道具なのか?」という問いを見て、皆さんは、どう思うか。「そうです!」というのであれば、話は簡単だ。学校に持ち込んでも構わないと思う。使い方を教えようということになるからだ。
しかし、スマホが単なる道具ではなく、人間の体に入り込み、脳内に入り込む可能性のある、つまり中毒症状を引き起こす原因になるような類の媒体であれば、どうだろうか。アルコールやたばこやギャンブルのような媒体であるとすれば。
スマホを使うということは、無意識に何かが浸透することを意味しないだろうかという危惧が、私にはあるのだ。電車に乗ってみて、周りを見てみると、寝ている人を除けば、スマホを見ている人が非常に多いことに気づかないだろうか。車の運転中は、携帯やスマホを見てはいけないという法律までできてしまったのだ。この状況をどう解釈して、スマホを学校に持ち込もうとするのか。ここが非常に心配なことなのだ。
記事には、「『適切なフィルタリング設定』『学校と家庭における適切な指導』などの4つの条件を課し、県立中でも持ち込みを認める方向だ。」とあるが、そのような条件を付けたところで、強制力もなければ、何もない状況で、有効なはずがない。導入する言い訳以外にはない。
しっかりした決まりや教育課程が何もないのに、学校にどんどんスマホが入り込むことには、私は反対だ。以前は、学校での使用条件を明確にすれば、スマホも使いようだと思っていたが、そんなに甘いものではないように今は感じている。それは、この現状を見ているからだ。つまり、スマホには、色々なアプリが入り、スマホを手放せないような人間を創っているように思うからだ。
安易に妥協するだけが、学校の生き残る道ではない。変えなくてよいことは変えないことだ。歴史的に見て、迎合主義が将来を幸せにしたことはない。もう一度、立ち止まって、学校のあり方をみんなで考えることだ。今までの学校に悪いイメージを張り付けて、新しい教育や学校が素晴らしいことだと宣伝している風潮に乗ってはいけない。そこには、罠が待っていると私は思っている。
【教育記事から教育を考える】
2021年1月29日(金) VOL.696
作者:中土井鉄信
(教育コンサルタント・合資会社マネジメント・ブレイン・アソシエイツ代表)