9月19日〜21日_能登_ボランティアの道しるべ(前編)
初めに
夏の日差しが地面を照らし、ジリジリと茹だるような暑さが身を襲う今日このごろ、はっきりとはわからないが爽やかな風が1年の速さを教えてくれる。
大学生の夏休みはとても長い、当事者である自分もそう感じるほどに長い。
自分で言うのもおかしいが、この夏休みはとても充実していた。
自身が共同代表を務める学生スタッフとしての野尻湖合宿、ゼミでの台湾合宿、そして締めの能登での災害ボランティア。
今回は能登でのボランティア活動に関して、記録としてかつ自分の感情を乗せながら記述していきたい。一つのエントリにはまとめきるのは難しいので多分前編・後編に分けて記述することになると思う。
能登ボランティアへの経緯
今回の能登ボランティアに行く経緯を整理したい。
私が在学している中央大学は八王子市を拠点としている。その八王子市が以下のようなプログラムを実施している。
今回はこのプログラムを使って石川県は能登に向かった。
地震で被災された方々には心からお悔やみを申し上げます。
参加者はプログラムを紹介してくれた中大OGのTさん、筆者、同じく中大生、そして在住の大学生の4名、私はTさんは対面したことがあるが、他の方々とは完全初対面で、Tさんのみが全員を知っているという少し奇妙な状態だった。(ボランティアの良いところである)
出発
9月19日20時頃
筆者は家庭教師(19時〜20時)のバイトを中大で終えてからバスタ新宿に向かった。
というのも夜行バスにて能登まで行くという算段になっていたからだ。
ただここで一つ問題が発生した、まさかの多摩モノレール線が信号故障にて完全に動かなくなってしまった。22時のバスで21:45には新宿にいたかった。(夜行バス自体が初めてだったため余裕を持つため)
ただモノレールは動きそうにない、生徒のご両親に連絡がついたのを確認したのち、筆者はシェアサイクルにて京王多摩センター駅に向かった。昨今のゲリラ豪雨の影響でか、ずっと自転車のサドルが濡れている状態で拭いても拭いても、水が滲み出てきて、臀部が湿ったのを強く覚えている。
「とにかく間に合わなかったら、やばい」という思いだけが頭の中にあり、多摩センターの駅前にシェアサイクルを戻し、京王多摩センター駅に走った。多摩は湿度が高い、もう9月も後半だというのにじめっとした暑さと汗が背中を伝うのがわかった。そんなこんなで、なんとか新宿駅に21:25頃に到着し、バスタ新宿に向かった。平日の新宿は私がもっとも忌み嫌うもので人の波と暑さで蒸し風呂サウナ状態になっており、とにかく早く抜け出したいう想いで、自然に早歩きになる。
無事に他の3名と落ち合い、自己紹介を済ませたのち、乗車口に向かった。あとは寝るのみだ、筆者はバスに乗る時は窓側を選ぶことが多い。
今回も窓側を選んで座った。なぜ窓側を選ぶかといったら、景色が見れるからでしかない。ただ今回は夜行バスでカーテンが閉まった状態だった。開けることはNGだとアナウンスがしきりに言っている。
それはそうだ、寝ている人もいる訳だし、外のネオンが中に入れば気を損ねる人がいるかもしれない。
まあ、景色を見れないことは我慢できるのが、もうひとつ厄介な問題があった。
今回乗った夜行バスは道中、3回の休憩があった。
筆者は休憩時間に外に出てその地域の風土を感じたいと思っており、この休憩所に停まった時は絶対に外に出たいのだ。(新鮮な空気を吸いたいという思いもある)ただ隣はおじさんがすやすやと寝ていた、起こすのは気が引ける。
このおじさんよほど図太いのか、バスが動き出してから10分ほどでいびきをかいてを寝てしまっていた。1回目の休憩場所は時間がまだ22:30であったため、少し肩をつつき、起きてもらい、外に出ることが成功した。
2回目は深夜1時半、やはり気が引ける。いくら他人でも寝てる人間を起こすというのはの良心が痛んだ、
「よし、ここは我慢しておこう、まだ3回目の休憩がある。その時に外に行こう」
そう決心して、自分も寝た。
そうして、待ちに待った3回目の休憩時間。時刻は午前4時半、普通の状況であればほとんど人が寝ている時間だ。
筆者はどうも連続的に寝るのが難しく、30分を目安に起きてしてまっていた。
自分の良心を少しだけ脇に置いて、寝ているおじさんを起こし、お手洗いに向かった。この時におじさんが隣の席に移動してくれたおかげか、その後の道中は割と快適に過ごすことができた。
多分、おじさんも、何回も自分の睡眠を邪魔されるのに嫌気がさしたのだろう。
少しだけ窓を覗いてみると、真っ青な空が広がっていた。車内なのであんまりわからないが東京よりも空気が澄んでいるような気がしてならなかった。
早朝
「やっぱり地方は良い」
どうも自分には東京の殺伐としている空気が慣れない、大学も、住んでいるところも23区外であるが、それでもどこか、息苦しさを感じてしまう。
そんな自分にとっては地方は心の休息所だと感じて、毎回自然を求めている。
バスは金沢駅を経て、今回の目的地である七尾にやってきた。
七尾について
ボランティア活動の拠点となる場所まではここから路線バスを乗りついで行かなくてはならないが、その話をする前に七尾の場所を確認しておこう。
石川県は日本海沿岸にある、南北に長くなっているのが特徴で、県庁所在地は金沢だ。
七尾市は能登島を前にして、海よりの町だ、温泉街としても名が知られていて、特に和倉温泉近くにはホテル、旅館等が立ち並び、温泉街の雰囲気がわかりやすい、筆者自身も浴びさせていただいた。電車も一応走っているが、地方なのは変わりないので、車は必需品だろう。
みんなで朝食はコンビニ等で済ませて、拠点のあるバス停まで向かった。
駅としては割と広めな形で駅前のバス停は非常にわかりやすく迷うことはなく、到着することができた。
拠点は「白馬口」というバス停から徒歩3分ほどで、バスに乗っていた時間は15分ほどだったような気がする。値段は290円で、最初に整理券をもらい、乗車し、降車の際に、支払いをするタイプのバスである。
時刻は8時すぎ、日差しが暑かった。
前段の話が長くなってしまったが、
白馬口のバス停を後にした後、拠点へと向かった。
いよいよボランティア活動に
詳細はボランティアの申し込みページに書いてあるのでそこを参照して欲しいのだが、
簡単に言えば、地元企業の建物の2階部分を間借りさせてもらいながら、ボランティア活動を行っていくものだ。
基本的にはリーダーとなる中心人物が存在していて、そこに都度で入るボランティアスタッフのみんながいる、という構図が理解しやすいだろう。
ほとんどが初対面の人たちの集まりだ。
現地に到着すると男性の方が快く向かい入れてくれた、ここでのボランティア活動は2回目で2日前に現地入りをしたとのことだった。
ボランティアの受け入れ先は1つではない、特にこういった災害があった場合は無数の受け入れ先、ボランティアの斡旋先がある、同じ街でも違う斡旋先から来ている人もいる。
時刻は8時45分ごろ、一通り、挨拶を済ませて、9時から朝礼とのことだった。
筆者も初めての体験だったのだが、大体、ボランティア現場では自分の名前を記したネームプレートを書く、プレートと言っても、養生テープにマジックペンで書く程度のものだが、それがそこでの自分の呼称になる。ただ今回は血液型も書いてくれ、とのことだった。
理由を聞くと、もし万が一のことが発生した場合に参考になるから。
なるほど、自分の素性をほとんど明かさずにボランティアをするので、細かな情報は先に書いておく。そうして未然に混乱を避けるということか。
(最初は明かさなくても話しをしていく中で、打ち解けるものなので最初に素性を明かす必要がないのかもしれない)
朝礼が始まる5分ほど前から人が集まってきて、私たちを含めて15名ほどになった。
来ている人たちも様々な年齢、性別で、同じ大学生も多数、存在した。
中にはヒッチハイクでここまで来たという方もいて、驚いた。
朝礼が始まり、一通りの説明とグループ分け、やることの確認を行う。
今回、筆者は半壊した家から家財等を持ち出し、仕分けしてゴミ処理場に持っていくという役回りだった。
半壊という二文字で済ませてしまうには、厳しい現状が存在している。
家の中で物が散らかっているのはもちろんだが、木造建物が多いので支柱が折れてしまったり、建物そのものがずれてしまっていたり、被害状況は場所それぞれだった。
軽トラの荷台にこれでもか、というくらい木材や別の品々(あんまりゴミという呼称をしたくない、本来であれば捨てる必要のない思い出の品々がたくさんあったからだ)
それをゴミ処理場(リサイクルセンター)に持っていく。
大きなものは緑のプレス機で潰してから埋め立てるのだと思うが、プレスされた先を見たりしたわけではないので、正直どうなっているかはわからない。
写真見る感じの道路は綺麗に感じる人が多いと思う。筆者もそう感じる。
ただ実際に走ってみると、轍が本当にひどい。
軽トラはサスペンションも割と固めに設定してある。
乗り心地というよりも、作業車であったり、荷物運搬車としての側面が強いからだ。
サスペンションの硬さはダイレクトに乗り心地に関わってくる。
簡単にいうと柔らかい車よりも硬い車の方が道路状況は把握しやすい。
走ってみると道路の至るところが地震の影響で痛んでいて、中には陥没している場所もあった。
そんな場所が無数に存在しているので自治体(国道であれば国土交通省)も把握が追いついていないように感じた。
それくらい本当に酷かった。
後で、地元の人に聞いた話だが、地震が起こる前は轍などはここまでひどくなかった、という。
つまり筆者が感じた轍はほとんどが地震によって起こされたものだと推定できる。わかっていたことではあったが、自然の力はとてつもなく恐ろしい。私たちを癒してくれるのと同時に一気に地獄に突き落とす刃を持っている、
見えない価値観を無視する図々しさ
ボランティアに身を置いていると、ボランティアをしたことがない人から、「偉いね」というお言葉を頂戴することがある。
偉い。
この偉いという言葉を少し噛み砕くと、自らの意思でそういった困難な場所に行って活動をすることが尊敬できる、だから偉い。
少し生意気な青年っぽく、歪曲的に考えるなら、
わざわざ、関係もない、当事者でもないのに、そんな場所に行って、大変な思いをするなんて、自分には真似できないよ、本当に笑
いやー偉いわー。
どちらのニュアンスもあると思う。
以前にも記述したのだが、ボランティア活動というのが私たちのイメージありきになってしまい、実存が希薄なものに変貌してしまった。
言い方を少し変えると、元々、存在していた他者を想いやり行う根源的な行為や自発性を、ボランティア活動と総称してしまったことで、むしろその枠組みのみでの狭い価値判断や価値観が世間に流布してしまった。
つまり行為を総称するモノがその行為の広がりと深さを阻害してしまった。
ボランティア活動を高尚なものだと捉えて、活動の幅を限定的にしてしまった。
この結果があの「偉いね」という言葉を言う人間を量産してしまう結果になったと筆者は考えている。
であるなら、大切なのはこの見えない価値観を堂々と無視する力だ。他者に何を言われてもぶれずに、やることを好き勝手やる意思が必要だと思っている。その小さな勇気の結晶がやがて大きな光や、人を惹きつける魅力を発揮する。
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