「絶望」の中で、それでも紡がれた物語に触れて。 #舞台桜文
昨日は、パルコ劇場で行われた「桜文」を観劇。
観劇して一番の感想は、久保さんがインタビューで語っていたこの言葉がまさに象徴する舞台だったなあ、と。
吉原のきらびやかさや、ところどころで遊女たちが見せる表情も、
その根本には、様々な事情を抱えてここにやってきた彼女らの「苦しさ」があるのだと考えると、
かりそめの華やかさとのあまりに大きすぎるギャップに、重苦しい、とても複雑な気持ちになります。
今回、観劇前に買ったパンフレットに、時代背景や専門用語を丁寧に解説してくださっているページがあったのですが、
当時の吉原、そこで生きる遊女たちが抱える構造・背景を知ると、
その「苦しさ」は、もはや「絶望」と言ってもいいんじゃないか、と。
それはたとえ吉原の頂点を極めた花魁であっても、おそらく変わらない。
まして桜雅は、男爵の娘という、かつては羨望の眼差しを向けられる出自を持っていた。
識字率もまだそこまで高くなかったであろう明治時代、なぜ桜雅はフランス文学を原典で読み解くという、一見すると遊女という身分には不相応ともいえるほどの教養を持ち合わせていたのか?
その理由を知ったとき、その激しすぎる落差が、桜雅の抱える「絶望」をさらに深めているような気がして…。本当に苦しさしかない。
そして、作品全体としての脚本の作り方も、その「絶望」具合を絶妙に高めていたような印象。
いくつかの伏線を張りつつ、その伏線を残酷なまでに、「こうはならないでくれ…」という方向に回収していく。
その張られた伏線が回収されるまでの僅かな「間」、これがまた憎い。
たとえば、父親が迎えに来ることを待つ雅沙子に、宝珠楼へ父親が訪れたことが告げられるシーン。
桜雅が霧野への手紙を髪結いの与平ではなく、振袖新造の碧に渡してしまうシーン。
桜雅が身請けされる場面、立ちふさがる霧野を前に、桜雅が髪につけた「宝物」のかんざしをおもむろに外すシーン。
なんとなく「きっとこうなるのだろうけど、それでは悲しすぎる…」と感じた予感を、見事に裏切らない結末の連続。
ただ突然ショッキングな出来事が起こるよりも、着実に絶望の淵に落とされているような感じが、よりその重苦しさを際立たせていたように感じます。
最後の最後に見られた2人の笑顔が、絶望に包まれた物語の中で僅かばかりの救いではあったし、
物語を昭和初期まで拡張して、桜雅と霧野の物語だけで終わるのではなく、それを読者として見つめる京子と岩崎、という重層的な構造にしたことは、
脚本の秋之さんのせめてもの「優しさ」だったのかなあ、と…。
久保史緒里さんの演技は、もちろん様々な感情を前面に出す場面も出色なのですが、
今回観ていて一番度肝を抜かれたのは、雅沙子や桜雅が「絶望」に打ちひしがれるシーン。
特に、桜雅が身請けされる場面で見せた表情は強く印象に残っていて、
一切の感情が消えた、まさに「魂が抜けた」という表現がピッタリの、あの立ち振る舞い。
顔の表情だけでなく、今にも果てて倒れ込んでしまいそうな、首のぐらつき、体の傾き、
まるで全身から狂気が発せられているようで、観ていてゾクゾクするものがありました。
舞台全体を通して、特に2幕では感情の振り幅が大きいシーンが続く中で、
あの一瞬にあの表情をぶつけられるのは、本当に凄い役者だなあ、と。
霧野を演じたゆうたろうさんも、物語を通じて終始純朴な青年でありながらも、「花簪」を書き上げるシーンだけは、それまでの純朴さが嘘かのような、欲にまみれたドロドロした眼をしていて。
身請けされた桜雅に相対して、その濁った眼がはたと正気を取り戻す、いや「取り戻してしまう」瞬間が、なんとも切なかった…。
そして個人的には、髪結いの与平さんが唯一の癒やしというか、この物語の中にある良心だったのかなあ、と。
桜雅が心から信頼を寄せるのもわかる気がしたし、病に伏せながら霧野に語った言葉には、なんとも心を打たれました…。愛や恋とは違う、でも同じくらいまっすぐに「想う」心が、ここにもひとつあったのだなあ、と…。
演劇はどんな作品でも、ものすごいエネルギーを使うものだと思うけれど、
特にこの作品は心身ともに消耗するものだと思います。
どうか、最後まで無事に完走を果たせますように…!
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