神戸と阪神淡路大震災
1995年に発生した阪神淡路大震災は、
神戸という街を、否応なく新しい歴史の流れに巻き込んだ出来事であった。
時間が経って、悲惨な災害を乗り越えた都市として、
神戸市はその知名度が世界的に高まった。
それでも、毎年、年明けからは震災報道が増える。
話題を変えながら、阪神淡路大震災は現在進行形の問題であるという語りが続く。
今も生活に困難を抱える人々の現状や復興が進まないコミュニティといった、
長く続く課題に焦点が当てられる。
震災を知らない世代が増えており、震災の教訓をどのように伝承していくのか、
現場での試行錯誤が取り上げられることも多い。
しかし、
これからの神戸の街をどうするのか。
報道や政治の議論において街の将来像が語られるとき、
なぜか震災は過去の出来事になってしまう。
神戸という街は、明らかにその都市としての魅力が薄れてきている。
近年では福岡市や川崎市に人口が追い抜かれている。
政令指定都市の中で、人口ランキングの逆転を許した事例は初めてだそうだ。
都心の三ノ宮周辺を見ても、防災公園や博物館を除けば、
震災を乗り越えて新しい都市機能が備わった様子は見られない。
震災後に神戸から巣立って大きく成長した企業があるわけでもない。
行政によって区画整理や市街地再整備がなされた地域もあるが、
今も発展している地域は西宮北口駅周辺くらいのものだろう。
街のアイコンとして、イニエスタ選手の移籍は久しぶりに大きなニュースだったが、ヴィッセル神戸に対する在京メディアからの関心は低く、その報道も少ない。
行きつけの店に行くと、二言目には神戸の将来に対する不安が漏れてくる。
知人の中には、JRの三都物語(神戸、大阪、京都を三都とした観光広告のこと)をもじって、「今は二都物語やで。」と嘆く人も少なくない。
どうしてここまで神戸の街から活力が失われてきたのか。
長い不景気や国際経済の進展に対応できていないことが問題だという指摘もある。
しかし、全国的な経済状況が原因であるならば、
大阪や京都のように観光都市として成長できない理由は何なのだろうか、
福岡や川崎に人口が追い抜かれたことはどう説明するのだろうか。
そもそも1995年に震災が発生してから、神戸という街は何を目指してきたのか。
震災復興において成し遂げられていないことが残っているのではないか。
ここでも、震災の経験と神戸の将来という話題の間には断層が横たわっている。
神戸という街は、かつて創造的復興を掲げて地域の再生を目指した。
現状復旧に拘泥すれば、都市としての衰退が待っている。
発展する国際経済に適応した経済構造、高齢化を見据えた人間中心の都市構造、
災害に強い社会の建設を目指して、行政は10年にわたり復興計画を推進してきた。
こうした政策的な取り組みの先に、今の神戸がある。
果たして神戸は本当に復興したのだろうか。
復興がかつて何を目指したのか市民は覚えているのだろうか。
神戸は創造的復興の先に目指した街になっているのだろうか。
神戸の復興を省みる。
自分たちの現在地がどのような歩みの先にあるのかを知る。
街の将来を語る前に、やっておかなければいけないことではないだろうか。
2020年、
神戸はさらにコロナ禍という新たな街の歴史の転換点に立ち会うことになった。
感染症に適応した都市のあり方が模索され語られる中で、
震災からの復興に託された市民の希望や願いはより希薄になっていく。
神戸の街としてのアイデンティティも曖昧なものになっていくのだろう。
都市と自然が近く、開明的で文化が豊かな、住み良い都市というイメージは、
もはや住宅販売のためのキャッチコピーに過ぎないのかもしれない。
1995年の阪神淡路大震災は、神戸という街の歴史から見れば、
全く新しい都市への生まれ変わり、その歴史の第一歩だった。
復興の中で今まで何を成し遂げてきて、これから何を目指していくのか。
例年の震災報道で抜け落ちている視点でもある。
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