「それって裸じゃないですか?」
突如として「あなた裸ですよ」と言われたら。やめて!見ないで!とうずくまってしまうだろう。
そもそもなぜ私は裸のまま外に出ているのだろうか。現実ならば通報もんだぞ?
そう、有名な寓話「裸の王様」のはなしだ。
賢いものにしか見えない布地。だれもが自分に見えないことを認めずに、王様は裸のまま外に出てしまう。もちろん、王様にもそんな服は見えていない。
虚栄心と同調圧力が掛け合わさり、普段なら考えられないような「裸なのに服を着ていると思い込む」現象が起きるのだ。
最後には同調圧力の外側にいる子どもからの声で、そんな呪いのような状態から目を覚ます。
え?見えてないのは私だけじゃないんだ。
そう確信できた瞬間に人は安心する。自分の考えに自信を持ち始める。
気をつけたいのは、周囲が沸いている話題に少しでも違和感を感じた時だ。私はちょっと違う意見なんだけどな…。その気持ちこそ深掘りしたい。
世の中がこう言ってるから、だからそういう流れでいいんだ。
これはもう同調圧力の罠にハマっている。
悪気はなくても、どこかの誰かを裸の王様にしてしまっているかもしれない。誰かを追い詰めているかもしれない。
しかも、そうやって蓋をした心の声は自分の中に雪のように積もっていくのだ。
人は誰しも裸の王様のようなものだ。
知っているつもりのものも、より熟練した人の目からすれば裸も同然だったりする。
何が恥ずかしいって、自分が自信満々に驕り高ぶっているときだ。つまりは服を着ているつもりで発言して、実は裸だった時。
いや、今の発言取り消して!
これまでの人生で何度そんな思いをしたことか。
でも、私はそれで良いと思っている。
自分が裸であることを知ることこそ大事なのだ。中学校で習った「無知の知」もそういうことなんだろうが、これってすごく難しい。歳を重ねれば重ねるほどに難しい。
「知ってて当たり前」みたいなフィルターがどんどん分厚くなっていく。
私は普段プログラミングを生業にしているが、最近は不勉強で新しい話題に疎い。それを自覚しながら「でもそれは隠したい」というやましい気持ちがある。
同僚に「あれ何でしたっけ?Pで始まる、最近よく聞く言語」そう聞かれた時、Pythonという言語が頭に浮かび「ピトン?」と答えてしまった。
実際は「パイソン」と読む。
パイソン…かっこいい名前じゃないか。
プログラミングというより英語の能力にも難ありだが、きっと後ろの席に座ってる人たちにも聞かれていたはずだ。
彼らの心の声が脳内再生される
ピトン…ピトン?
なんだかくっついて来そうな響きだ。やってしまった…と思ったが、私をこれをきっかけにPythonを勉強しようと心に決める。
裸であることに気づいたら服を手に入れれば良いのだ。
そして、裸であることを裸だよと教えてくれる人の存在は貴重だ。自分の中の当たり前を壊してくれる。
先日わたしは不覚にも旧知の仲の先輩たちの前で涙してしまった。悲しくてではない。嬉しくて泣いたのだ。
私はずっと自分が大変に感じていることや悩みを出さないようにと気をつけて来た。
つもりだった。
でも、「私ってどんな風に見えてますか?」と聞いたところ、「結構ネガティブな方の思いを抱えてる人だと思ってる。」と返ってきた。
私のカラ元気はバレバレだったのだ。
今ではもう、たまにしか会わない先輩たち。ちゃんと私のことを見てくれている、きっと昔からそんな風に見守ってくれていたのだ。そして、それをちゃんと伝えてくれる。
それが嬉しくて私は泣いてしまったのだ。
私は丸裸で生きてるんだなと思った。でも、そこで服が欲しいとは思わなかった。このままで良いと。
ありのままを見せられる存在がいることは、心の安寧につながる。それを否定せずに受け止めてくれる存在がいるから、私は今日も別の服を着て裸は見せぬよう日常を送ろうと努力する。
そして、私も誰かのそんな存在でありたいと思う。
日常の忙しなさの中で、つい見逃しがちになる大切な人のありのままの姿。しっかり見つめていないと感じ取れない姿。
それって裸じゃない?
でも、そのままの君も好きだよ。
そんな風に誰かの服になれるよう、自分の裸を受け入れながら進む。