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無意識という病

はじめに

こんにちは!
瞑想実践研究科の心庵まもるです。
noteでは瞑想に纏わる情報発信を行っています。
瞑想実践の方法やその結果としての効用、また瞑想に関する雑記なども書くことがあります。

内容のベースは自身の瞑想実践に基づく研究の結果をお伝えしているものです。
時々、脱線することもありますが、お付き合い頂ければ幸いです。
また、私は著作活動も行っています。

現時点では3冊の著作Kindle(電子書籍)、POD(紙の本)という形式で出版しています。
どれも瞑想を起点とした日常にある様々な課題や問題と向き合うテーマです。

自己紹介がてら以下にリンクを張っておきます。
宜しければ覗いてみてください。

★超・瞑想力-悩み葛藤を楽に超えていく方法-【Kindle版】

★超・瞑想力-悩み葛藤を楽に超えていく方法-【POD版】

★人生が変わる!幸せのメッセージの受け取り方【Kindle版】

★人生が変わる!幸せのメッセージの受け取り方【POD版】

★夢が叶う!引き寄せの瞑想法【Kindle版】

★夢が叶う!引き寄せの瞑想法【POD版】

現在、書籍は三冊、出版されています。
何故、このように瞑想の本を起点とした執筆活動をしているのか。
その点については下記記事で語っています。

また、瞑想を広げる活動をしている理由については下記記事を参照してみて下さい。

前置きが長くなりましたが、以下より本編の記事になります。

1.一日どれくらい生きていた?

日常という言葉があります。
これは毎日が常態化していることを表すものです。
そのような意味を考えなくても私たちはこの言葉を良く使います。

一日は夜明けとともに始まり、朝を迎え、昼を過ごして再び陽が沈み夜になる。
この変わらぬサイクルを単位として私たちの生活は成り立っています。

そして、毎日の実施していることは何か?

朝起きて着替える。
顔を洗い歯を磨く。髭を剃る。髪をとかす。
朝食を取り、職場へと向かう。
学校へ登校する。
あるいはそれを見送った後に家事をするのだろうか。

人により為している事は違うでしょう。
でも、昨日もその前も同じようなことをしていた。
そう感じる。
だから、毎日は同じことの繰り返し。

このような感覚から私たちは日常というものを毎日の同じことの繰り返しを意味する言葉としても認識している。

でも、本当にそうでしょうか?
本当に私たちは毎日を同じことの繰り返しで生きているのでしょうか。
少し考えるだけでも、そんなはずがないということが分かるとは思います。

同じ一日など一つとしてない。
過ぎ去った一日が再び戻ってくることはないのです。

小説や漫画などでは同じ一日を繰り返す物語などがあります。
フィクションならではの面白さはありますが、現実にはあり得ないのです。
にも拘らず私たちは毎日が同じことの繰り返しと感じてしまう。

何故なのでしょうか?

2.私たちは無意識で生きている

私たちの一日の生活の営みは毎日、異なっているはずです。
しかし、言葉にしてそれを説明しようとする時、ふと気づきます。

朝起きる。
顔を洗う。
朝食を取る。

日記をつけてみれば分かりますが、一日の始まりから終わりまでの流れを記述していくと共通点が多いことに気づくことでしょう。
もちろん、異なることを行う日もあります。

取引先へ出張に行く。
仕事を休み、家族で旅行。

そんな日は非日常という感覚で記憶されることでしょう。
しかし、目を覚ますこと、着替えること、食事をすることなどは概ね毎日、変わらず行うこと。
同じことを繰り返しているように見えてしまいます。

言葉という抽象化することので出来るツールを私たちは獲得していることにも関係があります。

言葉とは固有の物事のを表しません。
例えば、「今日は取引先とZoomでオンライン会議を午後2時から行った」という出来事があったとします。
一見すると具体的な事柄を示されているように聞こえますが、何一つ、ユニークな内容はありません。

何故なら、世の中ではその日の午後2時からZoomでオンライン会議をしている人などいくらでもいます。
もちろん、そういった会議も山ほど開催されていることでしょう。

もう少し、参加メンバーやその時の様子まで細かい文脈を加えれば固有でユニークな内容を表せる。
そう考えるかも知れませんが、それでも不可能です。

言葉で表す以上、同性同名のメンバーがいないとは限りませんし、同じような話題が上がる会議が他にないとも明言できません。
つまり、言葉で絶対の固有性を主張することは出来ないのです。

言葉を使った瞬間に私たちは抽象化してしまい、ユニーク性を失います。
ユニーク性を感じ取ることが出来るのはその場、その時だけなのです。
しかし、私たちは全ての事柄を抽象化してしまうことに慣れています。

例えば16歳くらいの女の子が学生服と思しき姿で道を歩ていたとします。
それを見た時に心の中では「女子高生が歩いている」と認識することでしょう。
女子高生と言っても、この世には様々な人がいるのです。

決して同じ人間はいません。
「女子高生」というパッケージされた言葉で十把一絡に出来るものではないでしょう。
当たり前のことです。

しかしながら、私たちは目にしたものを固有の存在として認識せず、記号化して理解し記憶します。
だから、気が付けば私たちは毎日の営みからユニーク性を失って生きているのです。

毎日が同じことの繰り返しと感じるのは全てを抽象化して記号化してしまうからだと言えるでしょう。

では、記号化されることで私たちにどのような事が起きるのでしょうか。

それは無意識に処理して生きるということです。

私たちは大抵のことを無意識にやってのけます。
職場に通勤することも、歯を磨くことも、あまり考えなくても出来てしまいます。
慣れた仕事になると別のことを思考しながら完了させてしまうことすら出来るのです。

ある意味でとても便利な能力だと言えます。

しかし、それは同時に本当は人生で味わえたはずの出来事をなかったことにしていることでもあるのです。
記号化して処理してしまえば、そこにあったはずの感覚や感情、気づきや経験もなかったことになります。

無意識で生きていた時間はある意味で人生を捨てていた。

極端に言えばそのように言えるかも知れません。
限りある生命の時間を捨ててしまう。
とても勿体ないことだと思いませんか?

3.瞑想は無意識を破る

無意識の何が悪い?
そう反論される方もいるかも知れません。
確かに私たちは無意識の処理を行うことで活動を合理化出来ているという側面があります。

特に毎日、行うような雑用の類はなるべく、手早く済ませたい。
あるいは、無意識のおかげで身体が勝手に反応してくれる。
そのことで成立しているものもあるでしょう。

歩くこと。
自転車に乗ること。
車を運転すること。

このようなことは、意識せず行えた方が便利かも知れません。
しかし、人間は注意しないとあらゆるものを記号化してしまうところがあります。
何でも効率的なのがいいという現代社会の風潮を見れば、一目両全です。

本当に全てを効率化してしまうのが良いことなのか。
そこで失われた人生の輝きは二度と戻ってくるものではないのです。
何が大事で何を効率的に行うべきか。

これを精査するためには一度、無意識を破っていく必要があります。
そのための方法論として瞑想が使えます。
瞑想とは無意識に光を当てて、顕在化させていく行為でもあります。

瞑想で行う行為は一見すると非効率そのものです。
呼吸を意識する。
歩くことを意識して、右足、左足と動く様をつぶさに観察する。
五感で感じ取てる感覚全てに気づくようにアンテナを張る。

一体、何のために行うのだ?

忙しない現代社会にどっぷりつかった精神状態の人ならば、悲鳴を上げたくなるような意味不明の行為かも知れません。

しかし、それが無意識に生きて人生を捨てている現代人には今、一番求めれていることなのではないかと愚考する次第です。

まとめ

無意識というテーマで今回はお話ししてみました。
無意識にやってしまっていること。
振り返ってみると沢山あるように思います。

記事として瞑想実践の提言という体になっていますが、実際には私自身に対する戒めという意味合いも含まれています。

気が付くと無意識になり、自分が何をしていたのか分からなくなる。
そんな瞬間が度々、私にもあります。
日々の瞑想の中で無意識を破り正気に戻っていく。

その行為は単純に見えてとても深いものです。
多くの人に瞑想の輪が広まっていくことを願っています。

長い文章をここまでお読み頂きまして感謝!

心庵まもる


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