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なぜ大学入試の国語は悪問・奇問揃いなのか?

早稲田大学教育学部の国語の入試問題について、「正解」がおかしいのではないかと、問題文に採用された著者の方からクレームがついています。

こういうことって、今に始まったことではなく、「(特に私大の選択式の)国語入試問題はおかしい」という意見は、僕の受験生時代の30年前からありました(おそらくそれ以前からもあった)。

僕の受験生時代も、現代文の入試問題に採用された著者「俺はこんなこと考えてない!」と憤ったとか、「自分はこんなことを主張していたのか!!」と感心したとか、「自分も正解できなかった」と愚痴ったとか、そんなエピソードがまことしやかに語られていました。

小説家の清水義範さんが、こういうおかしな国語入試をパロディ化して『国語入試問題必勝法』という短編小説を出版されたのが1990年のことですが、この問題は、いまだに全く解決していないんですねぇ。

どこかで読んだ話なので、正しいかどうかわかりませんが、入試問題に活用する場合、著者には、事前に許諾も得なければ、掲載料も支払われないという話があった気がします。
後者はわかりませんが、事前に許諾、確認を得ると情報が漏洩してしまう可能性もあるので、著者の許諾なしで出題せざるを得ないのはやむを得ないことです。

今回の場合は、大学側の「正解」が、予備校が出した回答例とも異なるということで、問題の作り方に問題があった(分かりにくい表現ですみません)とみなさざるを得ませんね。

しかし・・・
早稲田側の擁護をするわけではないですが、国語の入試問題について、「著者の言いたいことではなく、出題者の意図を読み解いて回答することが重要だ」と習った記憶があります。

要するに、早稲田大学が取りたい学生は、当該の問題で「イ」(大学側が提示した「正解」)と答えるような学生ということなんでしょうね。

たとえ、早稲田大学教育学部にとっての「正解」が、たとえ問題文の著者にとっても、予備校にとっても「不正解」だったとしても、早稲田大学教育学部が採用する学生を選ぶ試験なので、「これでいいのだ!」(バカボンのパパか!)ということなのでしょう(⁉)

小説であろうが、評論文であろうが、多義的な解釈が可能なものです。
「わかりやすく、誤解のないような文章を書くべきだ」というのは事実なんですが、そういう文章を採用して、そういう出題をすると、ほぼ全員が正解してしまうので、差がつきません。

学力のある生徒ほど正答率た高くなるので、必然的に、一流大学になればなるほど、点差をつけるために、悪問、奇問が横行してしまうことになります。
特に、私立大学は受験者数も多いし、経営も成り立たせなければならないので、費用対効果も考えなければなりませんから、どうしても自動的に採点できるような選択式のテストになってしまいがちです。

大学というのは、義務教育、あるいはほぼ義務教育となっている高校教育とは異なり、「自分で学び、自分で考える力を養う場」というのが大義名分になっていますから、勝手に大学側が正解を押し付けるような入試問題を出すのはいかがなものか? という意見は良くわかりますし、それで人生が左右される受験生が不満をいだいたり、憤ったりすることも良くわかります。

ただ、大学(特に私大)は、大学の教育理念というのがありつつ、経営を成り立たせるための経済合理性と、文科省の指導に従う必要があります(補助金を得るためにやむを得ないこと)。

そうしたジレンマの中で、変な状況に陥ってしまっているのが、国語の大学入試で、それは今の今まで解決できていないんですよねぇ。。。

まあ、春から大学生になられる皆様におかれましては、テクストとの戯れを通じて、多義性、多様性に満ちた学生生活を満喫されることをお祈りしつつ、本文の締めくくりとさせていただきます(⁉)

※何の解決策の提示もできてない、悪文ですみません・・・

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