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オバマ広島訪問:日米「戦後和解」への長い道のり

2016/05/17 Foresight

アメリカのオバマ大統領が5月27日、広島を訪問することが正式に決まった。三重県で開かれる先進7カ国(G7)首脳会議に出席するための来日日程に併せたもので、広島には安倍晋三首相も同行。これまでの各国首脳の広島公式訪問の慣例に沿うとすれば、平和記念公園の原爆死没者慰霊碑に献花をすることになる。現職のアメリカ大統領の広島訪問は今回が初めて。そして原爆犠牲者への直接の追悼行為も初めてとなる。

取り残されたヒロシマ・ナガサキ

人類史上初の原爆投下から71年目。何とも長い時間がかかった。冷戦の終結を機にヨーロッパでは、第2次世界大戦の当事国同士で、しかも同盟国間だけでなく東西間でも過去の出来事に対する和解行事が相当なレベルまで進んできた。それに比べ、ヒロシマ・ナガサキは取り残された形になっていた。しかも、今回の計画が取りざたされ、報道を賑やかすようになってからも、すんなりと正式の発表に至らなかったのである。

そもそもオバマ大統領は、就任直後の2009年4月に行ったプラハ演説で打ち上げ、それがノーベル平和賞受賞理由になったように、核廃絶の主張が当初の表看板の1つであった。もっとも、その政権の間、実効性のある政策は何1つ実現できずにいたが、残り少なくなった任期の間のレガシー(政治的遺産)作りとして核問題の象徴的な場所である広島訪問に熱い視線を送るようになったようだ。一方、日本側も安倍政権は、発足当初から日米同盟の深化がテーマであり、昨年の安倍晋三首相の米国議会演説に色濃く表れたように、日米の戦後和解の演出に熱心である。

「謝罪」がキーワード

本来なら、このように双方の思惑が重なれば、うまくいかないわけがないのだが、現実は簡単ではなかった。従来は、アメリカ国内では原爆投下を正当化する歴史観が公式のものとなっており、これに疑念を挟むような行為を大統領が行うことは政治的に困難であり、日本国内には、左右を問わずアメリカの戦争犯罪として糾弾する勢力が根強く存在した。しかし、それよりも現在は中国、韓国の反発がより大きなファクターだ。日本は中韓に対し謝罪を続けるべき立場であり、アメリカから謝罪される立場に立つべきではないという主張である。ここに至るまでのいきさつを見るかぎり、日米双方の関係者とも最初から謝罪とは異なる論理で動いていたが、内外の反応を見極めるのにそれなりの時間がかかったことになる。

第2次世界大戦の後始末で、「謝罪」がキーワードになっていること自体に、ヨーロッパとは異なり、未だに決着をつけることができない東アジアの戦後の姿がある。

1995年のトラウマ

長らく、「原爆」「ヒロシマ・ナガサキ」は日米関係のタブーであった。そのことをまざまざと見せつけられたのが、第2次世界大戦終結50周年の1995年の一連の出来事であった。この年、アメリカの国立スミソニアン航空宇宙博物館では、人類初の核兵器使用から冷戦期以降の核兵器拡散の問題まで視野に入れた展覧会として「エノラ・ゲイ50周年記念特別展」を企画していた。広島に原爆を投下したB29「エノラ・ゲイ」号の機体とともに、原爆の被害規模の解説などが展示の中心となる予定だった。ところが、退役軍人組織を中心に、連邦議会さらには民間団体などから激烈かつ広範な反対が巻き起こり、結局、この企画展は内容を変え規模を縮小するということで、原爆被害の展示については事実上中止、博物館館長も辞任に追い込まれた。

このとき、長崎に原爆を投下した「ボックス・カー」号の機長だったチャールズ・スウィーニー氏がアメリカ上院議事運営委員会で原爆投下が正しかったことを主張し、スミソニアン博物館の企画内容を批判する証言を行ったように、当事者が、まだかなり健在であり、その点、反発は理解できないものではなかった。これだけなら、「時期尚早」で済ますこともできた。

ドレスデンの和解

ところがその2週間後、これと正反対の出来事が起きた。同じく第2次世界大戦で連合国の大規模無差別爆撃を受け、万単位の一般市民の犠牲者を出したドイツのドレスデンで空爆の「50周年追悼式典」が開かれた。そこにはヘルツォーク大統領、コール首相といったドイツの要人だけでなく、なんと爆撃を行った旧連合国からも、イギリスのエリザベス女王の代理であるケント公と前国防幕僚長のピーター・インジ陸軍元帥、アメリカのジョン・シャリカシュビリ統合参謀本部議長といった制服組のトップが参列したのである。

ヨーロッパでは、再統一したドイツが東側各国と最終的な関係正常化を進める際に顕著になった考え方だが、戦争責任は引き続き厳しく追及していくものの、それとは別に、戦勝国、敗戦国の別なく戦争犠牲者の存在を認め、共同で追悼するという形で、戦後和解が進められるようになった。この「ドレスデンの和解」はその代表的な例で、米英の出席者は決して敗戦国に謝罪をしたわけではなく、ドイツもそれを求めたわけでなく、ただ一緒に個々の犠牲者を追悼した。ここには非難も謝罪も言い訳も存在しない。将来に向けて双方の感情のトゲを抜こうとしたのである。この時、同じアメリカの同盟国とはいえドイツとはほど遠い地点に日本は立っていた。

「相互献花」の提案

ただ日米間でも、その後、広島、長崎を巡ってゆっくりではあるが和解の動きが始まった。2004年1月に、ハワード・ベーカー駐日アメリカ大使が広島を訪問、原爆死没者慰霊碑に献花した。現職のアメリカ大使としては初めてのことだった。この前月、日本はイラクに陸上自衛隊を派遣しており、1990年代以降、いったん「漂流」と呼ばれる状況にまでなっていた日米関係が、小泉=ブッシュ時代に、最も親密になったことを象徴する出来事だった。

2005年には、日本側からのドレスデン型戦後和解を提案する声が上がっている。元共同通信ワシントン支局長の松尾文夫氏が、広島とハワイ真珠湾にあるアリゾナ記念館で双方の首脳が相互献花を行う提案を、日本の『中央公論』とアメリカの『ウォールストリート・ジャーナル』にほぼ同時に発表したのが嚆矢だ。松尾氏によると、当時のブッシュ政権側にも比較的好意を持って受け取られていたという。2008年の洞爺湖サミット前の記者会見で、この件について質問されたブッシュ大統領は「興味深い」とまで発言していた。同年にはG8の下院議長会議で広島を訪れたナンシー・ペロシ米国下院議長が、ホストであった日本の河野洋平・衆議院議長の提案によって原爆死没者慰霊碑に献花。河野議長は、その後、返礼としてハワイの真珠湾にあるアリゾナ記念館を訪れ献花している。

ルース大使の式典参加

2009年のオバマ政権発足後、松尾氏は、新任のジョン・ルース駐日大使に「相互献花によるドレスデン型和解」を提案。ルース大使は翌年、初めて広島の原爆慰霊式典に参加。2012年以後は、毎年、アメリカ駐日大使の広島・長崎の原爆慰霊式典への出席が続いている。オバマ大統領も2009年に初来日した際、記者会見で被爆地訪問について聞かれ、「できれば光栄」と答えた。現実には、事務方レベルでこの訪日の機会での広島訪問の可能性について検討されたようだが、日本の外務次官が「原爆投下に謝罪するために広島を訪問するという考え方は成功する見込みがないもの。初来日の際にそのようなプログラムを加えるのは早すぎる」と判断し、沙汰やみになってしまったという。

今回、ようやく実現の運びになった背景には、いくつかの要因がある。駐日大使の毎年の慰霊式典参列、そして直前のケリー国務長官を含むG7外相会議出席者による慰霊碑献花など、「謝罪抜きの追悼」という地道な環境整備が続いたこと。オバマ大統領が政権の末期となり政治的な反発の影響をあまり受けない状況になったこと。さらに言えば、1995年のスミソニアン騒動の際、まだかなりの数が健在だった「エノラ・ゲイ」「ボックス・カー」乗員をはじめとする原爆投下の当事者が物故したことも大きい。アメリカにおいても原爆は歴史となったのである。

中韓の反発も

それでもなおオバマ政権は慎重だった。国内でのスミソニアン騒動のような批判の火の手や、日本の平和団体から保守系組織に至るまで広がる原爆投下責任追及論者の圧力で日本政府が何らかの妥協を求める恐れを警戒したのは間違いないが、今回、それ以上に警戒したのが、中国、韓国の動向である。

ワシントンDCでの取材経験が長い松尾文夫氏は、「昨年の安倍首相の議会演説の際も、妨害のためのロビー活動がすさまじかったが、今回も、特に韓国系住民を中心に激しい反発が起きそう。場合によってはホワイトハウス周辺での座り込みぐらいやりかねない」と危惧している。しかし、当事国である日米ならいざ知らず、中国、韓国が、原爆投下に対する日米和解に拒絶反応を示すのであろうか。

オバマ広島訪問計画が表沙汰になってから、中韓の政府関係者やメディアの主張は一貫して、「日本は加害者であって被害者のような立場に立ってはならない」である。この構図の源もまた、戦後和解に求めることができる。

中国の現在の政権である共産党政権は、戦後の1949年に国共内戦に共産党軍が国民党軍に勝利して成立した。第2次世界大戦という枠組みで言えば、日本の交戦国であり、連合国の一員であったのは国民党の中華民国であり、人民解放軍の一部と戦闘があったとはいえ、中華人民共和国は対日交戦国というのには無理がある。

それを言えば韓国はもっと無理がある。終戦によって日本領朝鮮が南北に分断されて成立したのが朝鮮民主主義人民共和国と大韓民国である。この分断とその後の朝鮮戦争は、いわば連合国の戦後構想の失敗というか杜撰さの結果生まれたものであり、日本に現実的な責を問われてもどうしようもないことがらである。だが、北は満州地域の朝鮮族抗日パルチザンの後継であることを主張、やむなく韓国の李承晩政権も、国民党の政権下に亡命していた朝鮮独立運動家たちが、抗日戦に参加したというフィクションをもとに、北に対し正統政権を主張し、そのストーリーに沿って長年、国家運営を行ってきた。李承晩政権による、サンフランシスコ講和会議への戦勝国の立場での出席、署名要求から、近年の竹島問題、賠償見直しまですべてその延長線上にある。

「ともに犠牲者を追悼」への移行

それが通用してきたのも、38度線での分断が続き、韓国はアメリカにとって朝鮮戦争の戦友、一方、日本はアメリカにとって旧敵国であり、韓国がアメリカを通して日本に圧力をかける構図もまた続いていたからである。この構図は中国の場合でも当てはまる。松尾氏は「中国と韓国は、日本に対するとき常に日米関係を注視している。日本とアメリカの関係がうまくいっていなければその分、日本に強く出られると考えている」と指摘する。しかも、中韓は北朝鮮問題で接近する中、この構図の共有を明確にしてきている。日本がアメリカの旧敵国という位置づけは、中韓にとって東アジア政治、さらにいえば、近年激しくなってきた両国のアイデンティティ・ポリティックスの前提条件なのである。いってみれば、両国の政権ともこの地域の戦後処理の失敗の上に成り立っている。当然両国とも日米の戦後和解に理不尽な違和感をおぼえるだろう。

その中で広島において、日米のドレスデン型の和解が実現すれば、東アジア地域の中で日米だけがいち早く、「責任問題も謝罪も関係なく、勝者も敗者もともに戦争犠牲者を追悼し、和解する」という、もはや国際基準となったヨーロッパ型の戦後和解に移行することを意味する。それ故、この事自体、東アジアの戦後にとってある意味、画期となる可能性がある。

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