パスポートを紛失したら適応障害になったアラサー営業マンの話①
プロローグ
このエッセイは私の闘病生活をおもしろおかしく綴ったものである。勘違いしないでほしいが、このエッセイはいわゆる繊細さんや生きづらさを感じる人々をターゲットとした自己啓発本のような内容ではない。精神疾患の方々に救いの手を差し伸べるようなエッセイとは到底言えまい。このエッセイを読むことで心が楽になるなどと期待しているのであれば、今ここで読むのをやめることをすすめたい。
2023年12月4日、私は適応障害と診断された。療養には非常に長い時間を要し、休職期間も決して甘いものではなかった。悩み苦しみ、何度も自責の念に駆られたことは事実である。しかし、病気だからと言ってじっとしていられないのが私である。休職期間中は家でゆっくりする日などほとんどなく、大半の時間を家の外で過ごした。数々の新しい出会いがあり、一つのエッセイが完結するほどたくさんの体験をした。
私がこのエッセイを書く目的はただ一つ。適応障害も捨てたものじゃなかったなと、自分の闘病生活を肯定することだ。この精神疾患を自分の人生にとって意味のあるものに変えていきたいと強く願っている。
また、適応障害にかかった経緯から闘病中の出来事を綴ることで、どこかの誰かがクスッと笑ってくれるのであれば、私にとってそれ以上に嬉しいことは無い。
第一章 パスポート紛失事件
この事件が私の体、心、そして会社員人生までを狂わすきっかけとなってしまったのだ。
2023年4月、私は転職し、大阪の小さな商社で営業マンとして働きはじめた。営業成績は可もなく不可もなくといったところだろうか。会社でとくに目立つこともなく、順風満帆な日々を過ごしていた。入社から半年ほど経過した11月、中国に商品の工場見学へ行くことを命じられた。
同じ部署に1年先輩で1つ年下の男性同僚、奥野さんという人がいる。
奥野さんはとんでもなく天然である。大阪のビジネス街に「靭(うつぼ)公園」という大きな公園があるのだが、彼は長年「うなぎ公園」と思っていたそうだ。うなぎもうつぼ同様ニョロニョロした生き物であることは否定しないが、そもそも靭公園の「靭」は植物のウツボグサのことであるから話にならない。
ゴツめの体系で、シャツが出てしまうからと言っていつもサスペンダーを着用している。飲み会の席では、営業部長が奥野さんのサスペンダーを限界まで引っ張ってバチン!と肩にはじき、痛そうな奥野さんを見て皆が爆笑する、というのがお決まりのいじられ方だ。私は奥野さんの後輩なので、サスペンダーをはじいたことはない。奥野さんは後輩の私にいじられるのはあまり好きではなさそうだし、私もあくまで先輩として奥野さんを立てている。私はこれまで生きてきた30年間、サスペンダーを普段使いしている人はハンプティダンプティと奥野さんの他、誰一人出会ったことがない。
彼の天然エピソードは数知れず、ここに書くには枚挙にいとまがない。中国出張は、そんな奥野さんと私の2人で行くことになった。
私は大学時代、英語を専攻していた。交換留学や海外旅行の経験も豊富にあり、海外へ行くことに全く抵抗がない。在学中はまるで梅田に遊びに行くような感覚で、韓国や台湾を何度も旅行していたものだ。そのため今回の中国出張も不安は無く、むしろ仕事で海外に行けることに高揚感さえ感じていた。
一方奥野さんは、どうやら社会人になって初めてパスポートを取得したらしい。関西空港に着いた途端、イヤホンが欲しいだの薬を買いたいだの、実に落ち着きがない。その上英語ができないので、現地で必要なスマホ決済のセットアップや入国カードの記入もままならず、先輩に対して失礼を承知の上で申すが、頼りなく感じていた。奥野さんと海外出張に行くことはいささか不安であったが、私がしっかりしていれば大丈夫だ、とその時は思っていた。
だが、何を隠そう、しっかりしていないのは私の方であった。私は中国入国後ものの数分でパスポートを紛失してしまったのである。
恥ずかしい話だが、私は普段からうっかりものを失くす悪い癖がある。なんの自慢にもならないのだが、鍵、通勤定期、クレジットカードに留まらず、皆が絶対に失くしたくないものを一通り失くしたことがある。
昔、親に買ってもらったウォークマンを失くし、2台目を買い与えてもらったが、それさえも失くした。そのことはまだ親には話していないし、今後話すつもりもない。スマホで簡単に音楽が聴けるようになり、ウォークマンの紛失は今や何の問題でもなくなった。この便利なデジタル時代に感謝してやまない。しかし、私はスマホも2度失くしたことがあり、あまりに反省に欠けるので、何の問題でもなくなったというのはやはり撤回しておくべきだろうか。
東京出張の後、新幹線「のぞみ」で新大阪へ帰った際、名刺入れが入った紙袋を車内に置き忘れたこともある。新規取引先と名刺交換をする目的で東京に行ったのに、肝心の名刺が博多まで旅に出てしまったのだ。JR西日本の落とし物センターに問い合わせをし、置き忘れた紙袋は無事に自宅に届いたが、着払い送料が1350円発生した。これは自分への戒めとしておとなしく支払ったが、着払い送料というものがこれほど高価だと知る勉強代にもなった。勉強代と思えば確かに安いのだが、私はこれまでこの類の勉強代を何度支払ってきただろう。何度も支払っているということは、全く身についていないと言える。高い塾代をかけても全く成績が伸びない子供同然である。果たして勉強代という表現は正しいのだろうか。
本題のパスポート紛失事件に話を戻そう。私はこれまで数々の国を旅行してきたため、年季の入ったスーツケースはキャスター部にガタがきており、転がりづらくなっていた。中国の空港に着き、私は荷物用カートを発見するや否や、スーツケースを載せて運んだ。取引先の中国人に温かく出迎えてもらい、車で次の目的地へ向かう道中にハッと気づいた。私はパスポートを荷物用カートの前かごに置き忘れてしまったのだ。すぐにカート置き場に戻ったが、パスポートはすでに無かった。私はただ謝ることしかできず、あの時無意識的にカートの前かごにパスポートを置いてしまった自分を幾度となく責めた。
中国の取引先からすれば、私と奥野さんは重要顧客だ。重要顧客がパスポートを紛失したのだから、中国人の社員は当然のごとく親身になって探すのを手伝ってくれた。空港内の交番や監視事務所、荷物カートをまとめている倉庫など、問い合わせできるところには全てあたった。しかし、それでもパスポートは見つからなかった。
その日からというもの、私は警察や領事館への届け出に大忙しとなり、怒涛の中国滞在のスタートを切ることになった。もちろん仕事をする時間はなく、出張でのタスクは全て奥野さんに任せることになってしまった。奥野さんは、私がこれまでの社会人生活で出会ってきた人物の中で、一二を争うほど親切である。こんな惨めな私に対して、「全然気にしないで、僕に任せてください!」と明るく励ましてくれたのであった。
出張は火曜日~木曜日の3日間を予定していた。奥野さんは日本語堪能な中国人社員「Kさん」とタッグを組んで自身のタスクをこなし、私は英語堪能な中国人社員「Hさん」と共にパスポート関係の書類集めや申請作業に取り掛かった。そして毎晩4人は宿泊先のホテルで集合し、周辺のレストランで食事を共にした。
海外滞在する上で、パスポートは命の次に大切だと言われているのはご存じだろうか。パスポートは外国人にとって唯一の身分証明書である。とくに監視社会の中国においては、事あるごとに身分証明書の提示を求められる。すぐにでも領事館へ行って臨時パスポートの発行をしたいところだが、パスポートを失くした私は身分証明ができないため、領事館へ向かう新幹線にさえ乗れないのだ。
火曜日、まず公安警察署へ向かい、身分証明書(仮)となる「パスポート紛失証明」を申請した。1枚の半ペラの紙に公安警察署のスタンプ、たったそれだけの紙なのだが、交付されるのに何時間も待たされ、その日は他に何もできなかった。警察官にとっても、外国人のパスポート紛失証明発行など、なかなか異例の業務であっただろう。仕方ないのだが、お役所仕事に長時間かかるのは万国共通なのかもしれない。公安警察官には、明日以降領事館へ行って臨時パスポートを取得後、ビザ発給申請のためにまた公安警察署へ戻ってくるよう指示された。ただ、一つ気がかりなのは、そのビザ発給に通常2週間かかると言われたことである。
水曜日、早朝から領事館へ行くため、新幹線のチケットカウンターに赴いた。ここは監視社会の中国。正式な身分証明書無しに新幹線に乗ることはそう簡単ではない。Hさんは私の半ペラの身分証明書(仮)を提示し、私の事情を駅員に説明するのに口角泡を飛ばした。かろうじて私達は新幹線に乗車することができ、領事館へ向かう1時間程の車中で私はHさんに私情を打ち明けた。
私はこの話をしながら、自分がいかに我儘で無礼な発言をしているか、当然理解していた。パスポートの紛失は、明らかに私の過ちである。なのに、日曜日のピアノコンサートに出演したいだなんて、公私混同も甚だしい。ふざけるな、と自分に言いたい。ただ、週末のことを考えると新幹線内で涙をこらえることができなかった。私は本当にピアノが大好きで、私にとって演奏を披露することは生き甲斐なのだ。
中国人の国民性として、他人には無関心で厳しい面がある一方で、家族や友人などの身内にはびっくりするくらいの優しさを示してくれる。身内との絆が非常に強い文化的背景が影響しているのだろう。Hさんもご多分に漏れず、私を心から気の毒に思ってくれて、私の手を取りながらこう言ってくれた。
悲しいが、これが現実である。泣いて済むならもっと泣くのだが、どれだけ泣いても何の解決にもならないのだ。それより、いくら重要顧客と言っても、出会って間もない日本人のためにここまで親切な言葉をかけてくれたことに、私はひたすら感銘を受けた。私がもし逆の立場だとしたら、パスポートを紛失した外国人に対して、ここまで気の利いた言葉をかけることができるだろうか。サポートしてくれる人がHさんで良かったと心から思った。
先述の通り、中国には他人に対するマナーなどない。Hさんは私との会話のあと、新幹線の車内でとある人物に電話をかけた。私は片言の中国語しか分からないが、Hさんのシリアスな声色から、通話の相手に何かをお願いしていることだけは把握できた。
領事館へ到着し、紛失したパスポートの失効手続きと、臨時パスポートの申請を行った。ここでもまた3時間ほどかかると言われ、私達はマクドナルドで昼食をとりながら待機することにした。この先2週間も中国に滞在しなければならないことや、ピアノのコンサート出演が叶わない事実を受け入れるのに心が追い付かず、フィレオフィッシュをたった1口しか食べることができなかった。人生でハンバーガーを残したのは初めてだ。心のキャパと胃袋のキャパは正比例することを、この身をもって体験した。
まるで私は迷惑をかけるために中国に来たようなものだ・・・そんなことを考えながら復路の新幹線に乗車し、その晩も奥野さんとKさんと合流して一緒に食事をした。レストランはとても綺麗で、もてなされる料理は色とりどり、大変豪華である。Kさんは上海ガニの食べ方を懇切丁寧に教えてくれたが、私は正直何も覚えていない。作り笑顔をしているのがやっとであった。とは言っても、滞在中ずっとパスポートの件で不安な思いをしていたため、4人で食事をする時間は唯一現実逃避できる時間でもあった。奥野さんは明日帰国する。奥野さんと過ごす夜は今日が最後か、と切なくなりながら、味のしない上海ガニをすすった。
その夜、HさんとKさんにホテルまで送ってもらったあと、奥野さんが「ちょっと散歩しませんか?」と提案してくれた。ギラギラと輝く摩天楼の夜を、あてもなくぶらぶらと歩いた。中国の都会には、いかにも中国っぽい無名のキャラクターのオブジェが点在している。せっかく中国に来たんだし、と言いながら一切人気のないフォトスポットで写真をたくさん撮って遊んだ。小さな商店街を歩いていると、私はアクセサリーショップを見つけた。淡水パールのアクセサリーは私の好みだ。「コンサートに出演できるなら、こんなお店でネックレスでも買って舞台で着けたかったなぁ」とつぶやいた。奥野さんは「買ったらいいじゃないですか!お店入りましょうよ。」と言ってくれたが、私自身が一切そんな気分になれなかったため、感謝の気持ちを伝えた上で断った。
木曜日、奥野さんの帰国日だ。奥野さんは夕方の便までホテルで待機し、私は朝から臨時パスポートの提出とビザ発給申請をするためHさんと公安警察署に向かった。乏しい中国語力でHさんと警察官の会話を聞き取るため耳をダンボにしていたのだが、彼女たちの会話の中に「ミンテンシャーウ」(明日の午後)という単語が繰り返されているのが分かった。明日の午後、何かが起こるらしい。そしてHさんは繰り返し「フェイチャンガンシエ」(本当にありがとうございます)と言っている。
公安警察署を出ると、Hさんは私に「A miracle happened!」と叫んだ。領事館へ向かう新幹線の車内で、Hさんは同僚に電話していたらしい。その同僚の元クラスメイトが、私達が今いる公安警察署のナンバー2だそうだ。その人脈をうまく使い、本来2週間後に発給されるビザが明日の午後発給されることになったのだ。明日ビザが発給されれば、土曜日中には帰国できる。ピアノのコンサートにも出演できる。Hさんの絶大なる協力と、Hさんの同僚のコネで、私は全ての願いが叶ったのだ。Hさんはミラクルだ!と言うが、日本ではいくら強力なコネがあってもこのようなミラクルはあり得ないため、私は驚きと感動のあまり、その場で泣き崩れた。Hさんへは「Thank you.」以外の言葉が言えなかったが、私のこの感謝の気持ちはたとえ日本語でも筆舌に尽くしがたいほどであった。
ホテルで待機していた奥野さんとKさんと合流し、ホテルの近くのレストランで最後の4人での昼食をとった。奥野さんもKさんも、「良かったねー!」と大喜びでハイタッチをしてくれた。私は本当に恵まれている。絶対に起こるはずのない奇跡が起こっているのだ。
食事中、奥野さんのスマホの充電がなくなりかけていることに気付き、私は「食事中だけでも良かったらこれ使ってください」とモバイルバッテリーを貸した。昼食を食べ終わる頃、奥野さんが「あ!あの昨日のアクセサリーショップ行きましょうよ!コンサート出るんでしょ?」と言ってくれた。奥野さんは本当に優しい。一緒に中国出張に行く人が奥野さんで本当に良かった。そう思いながら4人で歩いてアクセサリーショップに向かうと、木曜日は定休日で閉まっていた。奥野さんはそういう人なのである。
いよいよ奥野さんが旅立つ時間だ。奥野さんには精神面で相当助けてもらった。奥野さんは私がパスポートを紛失したことに関して一度たりとも責めることはなかった。仕事面でもかなり負荷をかけてしまったにもかかわらず、毎晩冗談を言ってくれて、私の悲しい気持ちを癒してくれた。私が帰国すればまたすぐに会社で奥野さんに会えるのだが、奥野の帰国は少しばかり寂しい気持ちになった。奥野さんは別れ際に「気を付けて。とくに忘れ物!これ以上何も忘れないでくださいよ!」と笑って言ってくれた。
奥野さんはKさんと共に車で空港へ向かった。私とHさんはその晩に泊まるホテルのロビーで仕事の打ち合わせをすることになった。奥野さんと別れて間もなくして、奥野さんから電話がかかってきた。「ごめんなさい、僕忘れ物しました!モバイルバッテリー返してない!」そう、奥野さんはそういう人なのである。モバイルバッテリーはKさんに預かってもらい、翌日には手元に戻ってきた。
その日の晩は、Hさんの旦那さんも合流し3人で夕食をとった。これまでたくさんご馳走になったが、まともに味わうことができていなかったため、帰国が決まったその日の夜ご飯はとにかく美味しかった。広東料理をたらふく食べたあと、奥野さんに「初めてご飯の味がしました」とメッセージを送ると、「www」と返信が届き、画面越しに爆笑している奥野さんの表情が浮かんだ。